シベリア抑留壮絶人間記録3
4,心まで捕虜になるな ところが、そのMという人物は、私(S)の話を一通り聞くと、その輝くような鋭い目で私を見つめて、しっかりとした口調で言葉を発しました。「Sさんとおっしゃいましたね。あなた方は大変な勘違いをしていらっしゃる」 その時の私は27歳。 彼の目にも明らかに、年少に映ったに違いないこの私に、Mは敬語を使っていたのです。 「あなた方は逆立ちの人生を送っている。一番大事な芯が抜けってしまっている。それでは栄養失調になったり、餓死するのも当たり前だ。私を見なさい。私の目や筋肉は、失礼だがあなた方とは違って生き生きしていますよ。国境でソ連と戦闘して、敵を殺したために、われわれは最悪の条件で作業場を回らされている。食事も待遇もあなた方より悪いーーーでも私たちはまけない。なぜか?それは、われわれは捕虜でなく、日本人だからだ。どうです。あなた方も、もういい加減に捕虜を卒業したら。心まで何で捕虜にならなければいかんのですーー?」 気負い込んでいた私はこの一言で、返答に窮してしまったのです。 確かに彼の目は生きています。鯛の腐ったような目、がさがさに痩せ、皮膚の黒ずんだ私たちとはまったく比べものになりません。しかも彼の一言、一言は信念に満ちていて、目にみえぬ活気が、反発の言葉を許さぬ力となって迫ってくるのです。 私が目をみはったのは、M氏の言葉もさることながら、彼の目の輝き、彼の生き生きとした迫力でした。 私は確かに見たのです。 捕虜にありながら、捕虜でない、誇りというものを全く失っていない一人の日本人を。 それまで私は捕虜というものが、いかに人間を変えてしまうものであるか、嫌と言うほど知らされていたのです。 その時、タンボフ捕虜収容所には、日本人は関東軍司令部を中心に1500名。ドイツ兵も又1500名の合計3000名収容されていました。 なかでも日本人は、私たちがそこへ移された頃は、「俺たちは捕虜でない。プライドをもって生きようじゃないか」という人たちも少なからずいましたが、そういう信念はもう半年も続きません。 司令部の将校たちは、1か月か2か月で、もう食糧の奪い合いをはじめ完全な捕虜に成り下がっていました。 一皮剥けば関東軍の将校といえども、もはや餓鬼道に入っていたのです。 そういう状況の中で、このMという人物とそのグループだけは、毅然としています。「まだこんな男がおったのか」 と私は唖然としたものの、ものすごく新鮮な驚きを感じざるをえませんでした。 この人物は、捕虜でありながら捕虜でない。誇りというものをカケラも失っていない堂々たる日本人でした。 私は立ちすくんだまま、M一等兵の一言一句に魅了されてしまいました。 彼はなお言い続けます。 「Sさん、日本は確かに戦争に負けました。しかし、それだけの問題です。それが証拠ににほんの国土と日本人はまだ生き残っているじゃないですか。何十万、何百万か知れないけども、われわれの戦友たちが、自分の命を張って、異国の地に地を流し、肉を埋めて、その代償として、国土と日本民族、そして、日本精神というものをちゃんと残してくれたじゃありませんか。」 「しかし、米、英、ソの戦勝国は、日本精神をいかにバラバラにするかと必至の作戦を立てています。日本精神、大和魂というやつを完全に叩いておかないと、すぐまた、立ち上がってくると恐れて、とてつもない圧迫を加えてくるでしょう。」 「その時、異国で骨を埋め、国土と後に続く人間を残してくれた戦友たちに何と答えるか。それはもう、われわれ自身の精神を強固にして、今度こそ正しく平和な日本を復興させる以外に道はないんです」「だから捕虜になったくらいで卑屈になっておれんのです。いまの仕事は何も、敵のためにしているんではない。われわれは、ソrwんと戦闘して負けたが、その間ニハソ連兵を何万と殺してもきました。だから、最悪の条件で作業を強いられ、ひどい身なりにされながら生きるのは当然の事です。」「現在の苦しい作業や悪条件は、天が与えてくれた試練です。天の将に大任を下されんとするや、必ずその人に苦渋を与えんとあるでしょ。人間が成長する為に苦があるという事は、これは生命の本源です。今が将にその時なんです。私たちの食事も待遇も、あなたたちより悪い。しかし、私たちは、目も筋肉もみんな生き生きしています。あなたたちのように腐った目はしていない。私たちが負けていないのは、捕虜でない、日本人なのだという自覚に燃えてるからです」