弘法大師について思うこと
※「弘法大師伝の勉強会ー弘法大師の入唐求法3」というタイトルでしたが、勉強会と関係ない私の所感ですので訂正いたしました。 以前「弘法大師は仏教家でしょうか?」という問いをしたことがあります。弘法大師は真言宗の開祖として後世に大きな影響を与えました。日本仏教の祖師でオリジナルの教義を組み立てたのは「真言宗・弘法大師」「浄土真宗・親鸞上人」「曹洞宗・道元禅師」「日蓮宗・日蓮上人」弘法大師を除く、三人の祖師はほぼ同時代人です。さぞかし、賑やかな時代だったと思われそうですが、失礼ながら、三人の祖師は当時は現在の小さな新興宗教程度で在世中はそれほど広まらず、弟子がその教団を盛んにしました。当時、名声を得ていた方は「真言宗・忍性菩薩」現在ではあまり知られていませんが、日蓮上人伝を読むと必ず登場する「極楽寺良観」がその人です。真言律宗を開いた興正菩薩叡尊は戒律の復興を行いそれと共に社会救済活動を行ないました。その高弟で東国に活動を広げたのが忍性菩薩です。橋を架け、道路を作り、井戸を掘って庶民の暮らしを豊かにしていきます。さらに極楽寺に「救らい」施設をつくり20年間に五万七千人を治療し、四万六千人が治ったという奇跡を起こし、生き仏と崇められていました。ちょっと横にそれましたが、自分一人で大きな教団を作るということは大変だということです。一方、在世中に国内で影響力のある教団を作った人は3人しかいません。「真言宗・弘法大師」「天台宗・伝教大師」「臨済宗・栄西禅師」どうです。両方入っているのは弘法大師だけです。もっと驚くべき事実があります。以下は各祖師の得度の年齢です。「浄土真宗・親鸞上人」9歳「曹洞宗・道元禅師」14歳「日蓮宗・日蓮上人」11歳「天台宗・伝教大師」14歳「臨済宗・栄西禅師」14歳一方「真言宗・弘法大師」31歳つまり、他の祖師さんは子供のころから仏門に入るべくその方向性を持っておられたようですが、弘法大師はそうでもありません。(仮に20歳得度説を取ったとしてもかなり離れています)他の祖師の半分ぐらいの時間で、弘法大師は一番業績を残したということです。「仏教家・弘法大師」が日本の歴史でひときわ大きな光を放っているのはご理解いただけたと思います。しかし、弘法大師の業績はこれだけではありません。弘法大師は日本史に強烈な個性を持って足跡を残しています。ある時は、言語学者(篆隷万大象名義という日本初の辞典の編纂者)ある時は、教育家(綜芸種智院という入学制限のない学校を作る。 しかも学費は全額支給という超画期的なもの)ある時は、文学者(文鏡秘府論という詩文の創作理論を取りまとめた著作。 執筆法使筆法という字の書き方の著作がある)ある時は、土木技師(日本最大の溜池である満濃池をアーチ型にして改修)ある時は、書の達人(平安の三筆にあげられ、さまざまな書体を自由に操り 文化の中心の唐の長安でも「五筆和尚」の異名を授けられた)ある時は、詩人(唐の文化人を驚かせる漢文を書く)つまり、もし仏教家としての業績が全く無かったとしても日本の歴史に名が残っているということです。これだけの、足跡を残している弘法大師を仏教家でまとめていいのだろうか?というのが私の思いです。そう考えると「弘法大師の謎といわれる前半生」には仏教から離れた立場にあったに違いない。「さまざまな才を発揮した弘法大師がなぜ、真言密教を選んだのか?」実は武内先生に弘法大師伝の講演をお願いに行った時にこの疑問を明らかにしていただけたらというお話をしたのですが・・・意外な答えが返ってきました。「弘法大師は最初から僧侶の道を目指していたんですよ」「ええ~(@_@;)」従来の伝承の「弘法大師は5~6歳の頃から夢の中で、諸仏と語り、 仏様を泥で作って礼拝して遊びました。」こんな話は、真言密教の開祖である弘法大師を美化するために造られた話とばかり思っていたんですが・・・「弘法大師畿内誕生説」に基づくと事実に近いかもしれません。その理由は、弘法大師の母親の実家の阿刀氏にあります。阿刀氏とその周辺から高僧が出ています。そういう意味では、弘法大師が仏門に進まれたのは必然ともいえるそうです。さて、平安時代の31歳は今ならどれ位なのでしょう?調べてビックリ(@_@;)日本の統計で、平均寿命が50歳を超えたのは戦後の昭和22年。一番古い統計が明治24~31年、男42,8歳 女 44,3歳厚生労働省 生命表「人間50年」と「敦盛」を好んだ信長は49歳で亡くなっていますが、当時では長生きなんですね。平安時代なら、それより低いと思われますので、平均寿命30代?したがって31歳は今で言うなら60歳ぐらいなんでしょうか?(*^_^*)人生の黄昏時にあわただしく得度し、唐へ向う弘法大師の心中や如何に?謎はどんどん深まります。