入院21日目『余裕と自信と』
貼り紙を見ても、日付が退院後だから、と興味も持たなかったホスピタルクラウンだったが、退院が延びたおかげで間に合うことになった。
息子が入院した別の病院では入院患者が少ないにも関わらず10人弱のホスピタルクラウンたちがやってきて寸劇やら誕生日会やら大盛り上がりだった。
が、こちらは規模の割には年老いた地味なクラウンが一人…。
しかも、ベッドから出られない個別訪問の子どもが多いため、全体のイベントはほとんどなし…。
毎度お馴染の風船だけ一人一人に作って行ってしまった。
それでも娘は満足なようでクラウンにくっついて回り、部屋に戻っても、もらった風船で出来たプードルで遊んだり盛り上がっていた。
しばらく遊ぶと娘は何を思ったのか風船をねじり始めた。
「こわれてもママには元に戻せないよ。」
と言ったのだが、「いいよ」。
風船犬は元の長細い風船に戻ってしまった。
これと言ってやることもないし、時間にも追われていないので娘を眺めていると、娘は風船の端をキュッキュッとねじり、クラウンの真似事をしはじめた。
手付きも軽やかに左右をくっつけると、ちょっとした王冠を作り頭にチョイと乗せた。
私は考えさせられた。
クラウンの真似事を、ではない。
娘の人生、そのものを、である。
娘は療育やら通院やら、いっぱい通っている。
保育所も障害児保育に力を入れている良い保育所である。
でも、それらはおそらく娘にとって『クラウンに出会って芸を見せてもらい風船犬をもらう』ということだけ、なのだろう。
日々、通うところが多くて追われているからか。
娘自身が一般の日常スピードについていくのが精一杯なのか。
娘独自の時間が流れているのか。
きっと病棟の外の時間の流れでは、『風船犬で遊び、その後クラウンの真似をして自分でも作ってみる』といった応用、実践、それが自信につながるみたいな過程まで発展していく余裕がないのだろう。
もちろん私にも。
通院を止める訳にはいかない。
療育だって必要だ。
なら、どうやったら病棟の中のような時間の流れを彼女に作ってあげられるのだろう。
病棟の中の彼女は光っているのだ。
分かりやすいスケジュール。
追われない余裕のある時間。
少ない特定の子どもとのコミュニケーション、多い大人。
手術入院慣れをした娘は、診察はもちろん、採血点滴も平気。
一応、母は閉め出されるのだが処置室の中から談笑が聞こえてくる。
そんな娘は看護師医師からも可愛いがられ、本人も流れが分かっているから行動に自信がみなぎっている。
そして、皆が手術を受ける、という事実から来る私自身の余裕、というか、いちいち説明しないでも許される空間にいる気楽さ。
やはり特別支援学級にしよう。
娘に極力合わせてもらえて少人数で。
私自身も周囲にいちいち説明したり頭を下げる必要が少なくて。
娘を信じてみよう。
同世代の同性の友達が欲しくなれば、きっとあの子なら言い出すだろう。
いつか、どうして自分はこっちの教室か疑問を持つだろう。
そのとき彼女に選ばせてあげればいいではないか。
私がするべきことは、その時のことを想定して学校側に、あまり例がないと言われる特別支援学級から普通学級へ、の道を交渉しておくこと、だけなのだろう。
そう。
普通そうなのだろう。
教えるのは母親ではないし、看護するのも母親ではなくて第三者。
それをあまりにも母親に担わされる育児をさせられていた、きっとそれが一番の不幸だったのだろう。
現行の日本の義務教育は必ずしも理想ではない、絶対正義ではない。
国が代われば教育はガラリと違うのだし、そのどれもが正義でどれもが真剣に子どものためを考えたものである。
だから何も無理に普通学級の普通教育をインプットさせる必要はない。
少ないインプットでも、それを応用し、実践し、自信に繋げることこそ今の彼女に必要なことだと思うし、その自信を持つことが彼女が周囲と上手く生きることの出来る最短の道ではないか、とも思うのだ。
そして…何より私が楽だろう。
これからヘッドギアをつけるほどの大々的な矯正が始まるらしい。
通院は増える一方だろう。
途中で迎えに行こうが、遅刻して行こうが、お構いなし。
誰に何も言わなくても特別支援学級てだけで説明もいらず。
子ども同士だけの揉め事もおこらず。
地域の人々には存在を知ってもらえる。
最初はちょっと勇気がいるだろうが、それさえ乗り越えれば楽な生活が待っているだろう。
あわよければ、「△△ちゃん、どうして特別支援学級なの?うちの子より賢いのに~」なんてお世辞でも頂ければ万々歳でしょ。
長かった丸三週間の入院期間で得たことは大きかった、と将来振り返ることになるかもしれない。