こんな人間も実在する
私の母は…いろいろ変わった部分を持っていた人だったんだけど、被害者妄想が激しい、というのも特徴の一つだった。他人が話していると、それは全部自分の悪口に聞こえるようで、運動会やらセレモニーやら母親が出てくるような行事にも、一切、出てこれなかった。出てこなかった、というより、出ることが出来なかった、という表現が正しいようで。例えば、運動会など、自分が何かしらの役やら係についているときは、家でミニサイズのビール1缶あおって出ていく小心者で、行ってそれなりに仕事をこなして帰ってくるのであるが。何もない状態で、仲良く、円満に、臨機応変に近所付き合いする、なんてことは『出来なかった』ようであった。そういうときは、私に、自分がどれだけ忙しい身の上か、夫である私の父がどれだけ遊び人で自分がこうやって苦労しているか、一人で行事に参加するのが寂しかったら、その寂しさで父親を恨め、そして、直接文句を言って改善させろ、と、せつせつと語り、自己肯定をしないとならないほど母はしんどそうであった。仕事を通じて仲良くなった人も信じられなかったようで、平気で詐欺まがいのことをして金銭トラブルを起こしていた。一度。金銭トラブル関係で、何か些細なことで私も絡んでいたのを母親に利用されて、母親の一方的な言い分だけ聞かされて、相手の人と話しをつけるために、埼玉まで行かされたことがあった。会って話を聞いてみたら、もう見事なくらい相手は紳士で、理屈の通った話で、どう考えても、その300万円は母親が詐欺ったとしか思えなかった。相手も、まだ20前の私と本気でケンカするつもりなど毛頭ないようで、むしろ私の行く末を案じてくれたのだった。帰宅し、母親の怒りにふれないよう、適当に上手に事の真相を聞きだそうとしたのだが、肝心の部分になると母親の記憶はないようで、それどころか、見事なぐらい別の全く違うストーリーに変わっていて、全く、理屈も通っていないのにも関わらず、本気でその別ストーリーに疑いをもっていないようなのだ。私は何度も何度も顔色を見たが、もう全然、全く本気で思っている顔で。私が理屈をかまそうと見せようものなら、「だれも本当のことを分かってくれない」と、泣いたり怒ったり、とんでもなく、ただただ自分の正しさだけを主張するだけなのだ。10代にして私は悟ったものだった。世の中には自分がついたウソを本気で信じて、それを信じてくれないことで真剣に傷くような人が存在するんだなぁ、と。法学部に入っていた私はぞっとしたものだった。母親が犯罪を犯したら、自白などとれるハズがない。状況証拠はおろか、確実な証拠を目の前にしても、動揺1つしないだろう。母は自分のしてしまったことを忘れ、もしくは自己肯定しきり、責められていることに本気で傷つきさえして無罪を主張しつづけるだろう。いや、それどころか動機さえ自分でも忘れてしまっているだろう。小心者だから面と向かって殺したりはできまい。被害者妄想をふくらまし、想像力が欠如したまま、ちょっとした嫌がらせのつもりで、ブレーキの線でも切るかもしれない。それで同乗者や事故関係者が全て亡くなってしまったとしても、彼女にとっては自分はあくまでも被害者で、しかも、やったことは、ただ線を切っただけ。それは、彼女にとっては、あやとりのヒモを切ったくらいでしかないのだ。母 >何が悪いの?線を切っただけでしょう?警察 >そのせいで事故が起こり、巻き込まれた車の同乗者まで全て亡くなったんだ!母 >今までも悪口言われて、今も皆に責められて、悲しい…警察 >だからって、大勢の人を殺して、罪のない人を巻き込んでいいのか!母 >何が悪いの?線を切っただけでしょう?あわよくば線を切ったことを認めたとしても、取り調べは、この繰り返しだろう。彼女は自分のことしか考えられない究極な人間だから、他の人の話が間に入っても自分の話しかしないし、まして、自分がしたことで他人がどうなる、なんてこと、想像も出来ないのだ。…そして、まず間違いなく、こんなことを認めはしない。自分が線を切ってしまったことさえ、キレイさっぱり忘れてしまい、本気で自分が疑われている現実を嘆き悲しむだろう。どんなに客観的な事実を目の前に積まれようとも。世の中…こういう人間が実際に存在している、ということ。どれだけ認知されているのだろうか。偉い人ほど、こんな人間は周囲にいないんだろうなぁ。その偉い人たちだけで作った法律で、こんな人間も裁けるのだろうか。裁判員制度で、もし、少しでも、こういった人間の現状を訴えることができるのであれば、私は喜んで裁判員になりたいな、と思う。