父の死 いま父親を語ろう END
大学を辞めた私はアルバイトを転々としながら自分の行くべき場所を探していた・・・と言えば格好が良いが、実際には現実逃避のモラトリアム人間の最たる者だったのだと思う。 父親も母親も、何処に居るかも解からない息子に気を揉んだ事だと思うその間、私自身には色々な事件があったのだが、結局数年で食い詰めて家に戻り家業を手伝う事になる。 振り返って見れば、まったく意気地無く情け無い事此の上無い。 頑固で何時も不機嫌な顔をしていた父親だ、2,3発殴られて勘当を言い渡されても不思議では無いのだが、そんな私を父親は黙って受け入れた。 全く「敵わないな」と思う。 私がその立場なら、そんな馬鹿息子を受け入れる度量は無かっただろう ただ、当時の私には此れが、自分だけの一つの「挫折」としてしか認識できていなかった。力の無さを自覚した私が、「保護者」であり「抑圧者」であった父親に取り込まれたというような愚かな感覚だった様に思う。 馬鹿な息子が横道に逸れない様にという思いが、受け入れてくれた父親にもあったのだろうなと感じる。 余談になるが、私が一番勉強したなと感じたのも此のミニ放浪の時期だった。それ故に食い詰めた部分もあるのですが・・・・言い訳です^^;ユダヤ教やイスラム教の寺院にこそ行けなかったが、他のあらゆる宗教家の門を叩き、自分の能力の届く範囲だが哲学書、宗教書を読み漁った。まぁ、其処で何となく見えて来たのは「自分を助けるのは自分しか居ない」という月並みなものだったが、智識の量としてはそれなりのものがあったと思う。多分、私と同じ立場の第三者が居れば、客観的なそれなりの助言が出来たかもしれない。だが自分の事と成ると違うのだ。 「客観的でありえない」父親と息子の確執ってなんなのだろうか?と思うが、其処にアクセスして原理、真理を究明しようとしても「解かった様な気」になれるだけのような気がする。 今の私はエディプスコンプレックスなど「糞食らえ」と思っている。 仕事でも私的な事でも私と父親は良くぶつかった。 出入りの中間業者のドライバーにも「**さんの所は何時も親子喧嘩しながら仕事するんだね」とからかわれたものだ。 今になって思うと何事においてもワンマンで独善的であった父親と、その影響で対外的には調和型に育つしか無かった私は「割れ鍋に綴じ蓋」で良いコンビだったのかもしれない。 父親が入院するまで怒鳴り合い、呆れ合ったが、互いの存在を無視する様な事は無かったと思う。常に意識しあいながら反目するというのも一つの関係性としては悪いものでも無かったのだと思う。 巷で言われる「孝行をしたい時には親は無し」という言葉は実感なのだろうが、全て事が終わった後の責任の無い感傷なのだと私は思う。 それは残された者の慙愧を救う為の慈悲であり、良い意味での詭弁であるのだろう。 もっと何かを成しえたかもしれぬという思いも奢りかもしれない。 只々、在ったのだ そんな事を考えていたら「主客未分」という言葉が頭に浮かんだ。 若き日に「役に立たぬ」と一蹴したものだが何故なのだろうか・・・・ 人間の死は生き残った人間にのみ意義を齎すものだと思う。 父親の死が私に齎したものの意義は「得体の知れない爽やかなもの」だったであろう事を、私はたった今、現在は感じている。 「父の死、いま父親を語ろう」END PS 時間的制約もあり、何か纏まらない文章で終えてしまいましたが、 弔意を頂いた皆様に心より感謝いたします。