いじめ自殺をなくすには
福岡でまた中学2年生がいじめで自殺しました。とても残念なことです。 事件的には、ズボンを脱がそうと手や足を押さえつけたという暴力行為の疑いで、3人が書類送検されました。 でも日常的に「死ね」「うざい」などといじめられていらしいですね。 いじめをしていた子供もおそらくはいじめが悪いことだという認識はあるはずです。それなのになぜいじめをしたり、とめることができないのでしょう? こういう場合、いじめをした子供、それを教師や親など周りの大人がどう扱っていたかいじめら関するルールや制度がどうなっていか、たいていは、そういう表面的な話に終始します。 そういう表面的な現象はそれぞれの事件において違いがあるでしょうが、その根本にある心理は実はたったひとつのことなのです。 「あるがままの自分を認められない」このことが関係したすべての人に言えるのです。 A.W.シェフが「嗜癖する社会」(毎度のことながら、写真もない(^^;)の中で、シェフは、人の心の問題(~しないではいられないという嗜癖)は、社会のシステムの問題だと言っています。 嗜癖になる状態を臨床心理学では「共依存」と呼んでいます。社会生活に支障をきたすほどの状態は、共依存症としてカウンセリングなどの対象となりますが、社会は、その構成員すべての人にある程度の共依存であることを強いているのです。 簡単にいうと、自分がしたいと思わなくても、社会のルールを正しさと規定して、その正しさに従うことを強制しているのです。 その結果、自分が正しく生きているかどうかは、他者の評価で決められてしまうことになります。 それは、社会に適応するように育てられていく過程で常に「ありのままのあなたであってはいけない」というストロークを投げ続けられているということなのです。 その結果として、たとえば、『競争に勝つことが他者に認められることだ』とか『強いことが他者に認められることだ』という結論が一人歩きしだします。 勝つと誉められる、認められる、→快感 そうするうちに、中間の認められるを飛ばして、勝つにことそれ自体に快感を得るようになります。 いじめをすることは、その弱者に勝っているといことと認識してしまうのです。中間の認められるを飛ばしてしまった論理なので、本来の目的と違った状態でも機能し始めます。 いじめをしたら、他者から認められないのに、(いじめをしてでも)勝つことがよいと部分だけが一人歩きしてしまったのです。 その快感のためにいじめを止められないのです。 しかし、快感にも二種類あります。ひとつは、純粋に自分がしたいこをした快感、自分を生きている快感です。これは愛の快感です。もうひとつは、怖れが動機になっていて、その怖れから逃れるための快感です。 たとえば、誰かに殺されそうになって恐怖を感じる、やっと逃げ出してもう恐怖から解放されて安心という時に、『ほっ』とする、そういう気持ちに通じる快感です。 人から認められない怖れ、不安から勝っているときは解放されてしまうのです。 おそらく、そういう視点でいじめをした子供たちを調査すると親や教師などから認められていない不足感を感じてたということがわかると思います。 親が認めていたかどうかではありません。親がちゃんと認めていたとしても、子供が自分は親から認められていないと感じていたらそれは認められることに不足感を感じているということです。 たとえば、ある子供が勉強がとてもよくできる。でも、絵を描くのが好きでそっち方面の仕事をしたいと思っていたとします。 親は、「おまえはとても勉強ができるのだから、絵の仕事のようなあてになられないものではなくその学力を活かして弁護士になったほうがいいよ」と言ったとします。 親は、子供が勉強ができることを誉め、認めていますから、子供のことを認めているように感じているかもしれませんが、子供のほうでは、自分らしく生きていると感じる絵を否定されているのですから、認められていないと感じてしまう、というようなこともあるわけです。 もし、親が子供のあるがままを受け容れる子育てをしていれば、不足感のない子供に育ちます。 満足している人は、誰かをいじめたいとは思いません。 非常に単純な話ですが、不足感を埋め合わせる代償行為がいじめなのです。 では、単純に子供のありのままを受け容れればいいか、というとことはそう単純ではありません。◆ こんな話があります。ある母親が幼い子供をつれて子育ての専門家に会って質問をしました。「この子をどのように育てたらいいでしょうか?」するとその専門家はいいました。「もう手遅れです」驚いて母親は質問します。「でも、この子はまだ三歳にもなっていません」専門家は答えて言います。「その子を愛ある子供に育てたかったら、あなたの親から育て直さなくてはいけない」 これは、共依存のことを知っていたら納得できる話です。共依存の特徴に「共依存の連鎖」というものがあります。親から子供に共依存が連鎖していくのです。 遺伝とは違います。そもそも共依存は育てる過程でなっているのですから、育てること、育て方、それ自体に問題があるのです。 その幼い子供を愛ある子供に育てるには、まず親が愛(あるがままを認められる状態)で育てなければいない、そのためには、母親の親が母親を愛で育てることが必要だった、というわけです。 これは実際のところ、どこまでも上にさかのぼってしまうので、自分の子供を育てるのに遅すぎるということはありません。 たった今から、共依存、コントロールドラマ、防衛機制などを勉強し、愛を前提にして自分が生きるようにすれば、子供はそれを見て愛ある子供に育っていきます。 ■今回のブログはいかがでした?(^-^) 『まあ、いいんじゃない(^^)』と思われたら、 ランキングボタン↓を押してね(^^)♪