悟りを語る004~正しさを手放せない理由
あなたが悟ろうとするなら、あなたが今持っている『絶対的な正しさ』を手放さなければならない。感情の壁を越える必要がある。 しかし、あなたはそれを絶対的に正しいと感じているのだから、そう感じている間は手放すことなどできはしない。 さらにその正しさが絶対的なものでないと論理的に理解したところで、感情的に納得することができない。 ではいったい、どうしたら手放すことができるのだろうか。 その方法を得るためには、あなたがその『絶対的な正しさ』を手に入れた経緯を知る必要がある。 それには、最近になって臨床心理学で明らかにされた共依存症といわれる状態を知ることが役に立つ。 共依存とは、ある種の人間関係依存のことをいう。自分に存在価値を感じられない人同士が、相手との関係性において他の人から評価されることで自分の存在価値を感じている状態のことだ。 もともとアルコール依存症の臨床現場において発見されたものだ。 あるアルコール依存症の夫を持つ妻がひとりでカウンセラーに助けを求めた。当然カウンセラーは、本人を連れてくるように言った。だが、妻は毎回理由をつけて連れてくることを拒んだのだ。 その態度に不審を抱いたカウンセラーは、あることに気づく。 妻は表面的には夫のアルコール依存症の回復を望んでいるのだが、心の奥では無意識に、夫がアルコール依存症でいることを望んでいたのだ。 それはなぜだろう? 妻は自分の存在価値に不安を抱いていた。『こんな私が生きていてもいいのだろうか』と。しかし、アルコール依存症の夫を助けることで必要とされていると感じることができた。しかも、周囲の人からも献身的な良き妻という評価を得られた。そんなときだけ、彼女は生きがいを感じ、自分の存在価値を感じられるのだ。 もし、夫が健全になったら、一人で生きていけるようになったら、もう自分は必要とされない、献身的な妻の役割も終わってしまう。そんな恐れが彼女に夫がアルコール依存症のままでいることを望ませるのだった。 そのような状態に気づいたカウンセラーは、妻のような立場の人間をイネイブラー(依存症の支え手、依存症を可能にする人)と呼び、イネイブラーも結局は依存症者を仲介してアルコールに依存しているという意味で、、そのような状態を共依存と呼んだのだった。 実際、イネイブラーである妻は、今回だけと言いながら飲酒を許したり、夫がアルコール依存症によって起こした不祥事を隠したりして、遠回りではあるが、依存症であり続けことを助けているのだ。 そして今では共依存症はアルコール依存症患者に関わらず存在する人間関係依存だということが知られている。共にアルコールに依存しているという意味合いから、自分の存在価値を共に他人からの評価に依存している状態として認識されている。 そんな共依存症の人は、自分に自信がない、自己の存在価値を信じることができない。そこで必要以上に他人と関わり、他人をコントロールして他者に必要とされたり、他人に評価されたり、関心を持ってもらおうとする。自分に自信がないから、他者から認められることでしか、自分の存在価値を感じられないのだ。 共依存は、機能不全家族の中で育つことで身についてしまう嗜癖だ。機能不全家族とは、「子育て」「家族の正常なコミュニケーション」「地域との関わり」といった、一般的に家庭に存在すべきとされる機能が健全に機能していない家族のことだ。 別の視点から見ると、一般社会の正しさとまったく別の正しさが存在する家族だといえる。その中で暮らす人間は、その一般社会と別の正しさに適応するようになる。その閉鎖された社会の中では正常に育ったともいえるのだ。 深海で生きる魚は深海の高い圧力でも生きていけるように適応している。しかし、それゆえに深海から釣り上げられる魚は、眼や胃袋が飛び出た状態で水面まであがってくる。 それと同じように一般社会と違った環境に適応した共依存症者は、一般社会にでると生きにくさを感じてしまうのだ。 しかし、安心して欲しい。水族館の深海魚は圧力がかかっていない水槽で生きている。それは一時的に加圧水槽に入れて、新たな環境に適応するように慣らしているのだ。同じように、共依存症者も社会に適応するように回復することができる。 機能不全家族に置いて、基本的に足りないのは、ありのままを認める愛情だ。機能不全家族の中では、親の求める条件を満たしたときだけその存在価値を認める、という条件付の愛で育てる。 その環境に適応するためには、まず相手の要求が何かを見極め、それに応え、さらに本当に相手を満足させることができたか、相手の評価を待つ、というクセを身に付ける。 こうやって身に着けた正しさを決めたのは、親など自分以外の人間だ。自分で決めた正しさなら自分で変えることができるが、他人が決めて求めてくる正しさは、自分では変えることができない。さらに、その要求にに応えても、その結果が相手の望んだとおりか、自分では確認できない。相手の評価を待つしかない。 共依存症者が相手の境界線まで踏み込んでしまうのはそのためだ。相手の顔色を気にしたり、相手に気を使いすぎるのはそのためだ。 しかも、機能不全家族の中で、条件付の愛によって育てられるということは、もし要求される条件を満たすことができなければ、親に見捨てられるかのような不安と恐れを抱くことになる。幼い子供は、親に見捨てられては生きていけない、つまり見捨てられる不安や恐れは、死の不安と恐れでもあるのだ。 その恐れから逃れるために身に着けた正しさは、死の恐れと無意識に結びついた絶対に守らなければいけない正しさとなる。、 いわゆるトラウマ状態である。 その無意識に感じる見捨てられる恐れ、死の恐れを克服しない限り、その絶対的な正しさを手放すことができない。それが感情の壁の正体なのだ。 驚くことに、それは共依存症といわれる病的な状態の人だけの問題ではないのだ。 共依存症は病的な状態だが、広い意味で考えるとほとんどすべての人が共依存なのだ。 アメリカでの共依存研究の権威であるシャロン・ウェグシェイダー=クラウスは、アメリカの人口の約96%が共依存者の条件に当てはまるという。 そもそも正しさは相対的なものだ。日本の家庭においては、日本の社会の正しさとかなり外れた正しさをもつ家庭が機能不全家族だが、日本の社会の正しさがすべての人に共通の正しさではない。 社会の正しさの中には、その社会を維持することを第一とする正しさがある。それは、社会を維持するためには個人を犠牲にする正しさだ。戦争が正しいとされるもの、死刑という殺人が正しいとされるのも、それが社会の維持という目的に適っているからだ。 どんな人にも、自分の正しさと社会の正しさが一致しないために生きにくさを感じる場面が出てくるはずだ。 つまり、人は社会に適応するようにしつけられるうちに、自分の中の正しさと違う、社会の正しさを身に着けているのだ。 普通の人も社会の常識や道徳、法律という社会の正しさと違うことをすると周りから冷たい目で見られたり、迫害されたり、罰せられたりする。その恐れから、常に自分が社会の正しさに適応しているように自分を抑え、知らず知らずのうちに自分以外の誰かが決めた絶対的な正しさを身に着けていく。そしてその対応が正しかを確認するために、周りの人の顔色を伺うようになっていく。それはすべての人が広い意味での共依存になっていくことを意味している。 そのことは、欲求として現われている。マズローの欲求段階説を見てごらん。 最初に求めるのは、動物的な生きるための最低限の生理的欲求だ。その次に、それを安全で安定したものにしたいと願う。 ここのでは自然だ。だが、そうやって安全に安定的に生きることができると、次に社会の一員として認められることを望む。社会生活をしているのだから当然のことだ。だが、いく種類もの社会があることからもわかるようにそれは人工的なものである。社会が不自然なものである限り、それは自然ではない。そして、その次に求めるのは、承認(尊重)の欲求だ。 共依存であるということは、自己の存在価値を他人に認めてもらうことを求めているということだ。最初は社会の一員として認められれば良かったものが、より安定して認められたいと願うようになる。それは動物的本能が社会生活の中でも発揮されているということだ。社会の中で、それはより尊重されることを意味する。したがってより高く評価されることを求めることになる。たとえば、お金持ちであれば周りの人も評価してくれる。しかし、自分よりもお金持ちからは評価されないかもしれない。より多くの人から認められるためには、よりお金持ちにならなければならない。 スポーツで一流になった、歌手として一流になった。でもまだ認めてくれない人がいる。より多くの人から認められるためには、より努力してだれからも認められるようにならなければならない。 その、これではまだ認められないかもしれないという不安からの欲求が、尽きない欲の正体なのだ。 つまり、あなたの持っている絶対的な正しさというのは、社会を維持するという目的のための正しさなのだ。これまでにも、清教徒革命、フランス革命、ロシア革命、明治維新など、さまざまな革命が起きてそれまでの社会を終わらせている。 その正しさは、絶対ではない。 なにも革命を起こして今の社会を壊せといっているのじゃない。大切なのは、『あなたが絶対だと思っている正しさは、絶対ではない』ということを腑に落とすことだ。 ありのままの自分を認めてあげることだ。 さんた ひかる【送料無料】嗜癖する社会 [ ウィルソン・アン・シェフ ]価格:2,205円(税込、送料込)