大江健三郎「二百年の子供」
「わたしの唯一のファンタジーです」という大江健三郎のことばがカバーの見返しにありました。ほほう、ノーベル賞作家もファンタジーを書く・・・ファンタジーという言葉はなんてメジャーになったのでしょう。 私は大江健三郎の他の作品をほとんどまったく知らないので、何とも言えないのですけれど、ファンタジーらしく書こう、という意図が感じられます。タイムマシンという言葉が何度も出てきて、確かに主人公のティーンエイジャー「三人組」が別の時代にゆくのですが、これはSFではないというしるしに、作者は「「夢見る人」のタイムマシン」と呼んでいます。 そして、近未来に行って競馬欄を見て金儲けをするような、そんなタイムマシンではいけない、と言っています。 夏休み、真木、あかり、朔の3きょうだいが、亡くなったおばあちゃんの「森の家」に滞在し、近くの大樹のうろで眠ることによって、いろいろと別の時代にトリップするのです。 「童子」といわれる特別な子供がよその世界に行きたくなると、「千年スダジイ」の根本のうろに入って、会いたい人、見たいものをねがいながら眠る。心からねがえば、会いたい人、見たいものの所へ行くことができる。 ――大江健三郎『二百年の子供』 “3人(4人)きょうだいが、ある仕掛けを使って何度か別世界へトリップする”。その仕掛けは、ちょっと変わった大人(親ではないが、子供たちが親とは別の意味で頼れる存在)が関係している。・・・これは、ヒルダ・ルイスの『とぶ船』とか、あの「ナルニアものがたり」を私に思い出させました。 タイムトラベルすることによって、自分たち(そして自分たちの家族、故郷、国、人類)のルーツを知り、歴史や時について考え、今の自分がどんな基盤の上に立っているのかを確認する・・・これは、以前にも河合隼雄の受け売りを書きましたが、アイデンティティの確立する10代の子供たちの通過儀礼なのですね。 『二百年の子供たち』のストーリーも、イギリス児童文学(ファンタジーの古典)と同じ形式を使いながら、なかみは日本ならではの歴史や、ものの考え方を、お説教臭くなくさらりと書いているところは、さすが大作家、読んでいて心地よく納得のいく展開と文体。 きょうだいそれぞれの個性(知的障害者で、それゆえ魔法使いのような特別な視点を持つ不思議な兄、頭脳明晰で常識派の弟、そして繊細で思いやり深い真ん中の女の子)もすてきだし、何よりこの三人が補い合いながらも、三人だけでやっていくのではなく、周りの人々と関わりを持っていくさまが、自然に嫌味なく描かれています。 タイムトラベル先のできごとは、江戸末期の逃散や一揆の話、戦争当時の話、明治時代アメリカにわたった津田梅子の話、そして未来(2064年)の日本の農村の姿。どれも、日本人にしか語れないできごとや人々の心を短く強く訴えかけるようなエピソードばかりだと思いました。 イギリスの古典的児童書によくあるお説教臭さがないかわりに、作者の、若い世代にこれはどうしても伝えなくては!という熱い想いのようなものがいっぱいにこめられた作品で、そういう意味では、文体もストーリーも簡潔でふんわりしている割には“重い”一冊かもしれません。