映画版「かいじゅうたちのいるところ」――深刻な家族の問題
「20世紀最高の絵本を映画化」とかいう宣伝につられて「かいじゅうたちのいるところ」を観にいってきました。原作の絵本は、子どもたちが幼いころ何度も読んでやったので、神宮輝夫の訳文をほとんど覚えてしまいました。覚えちゃうほどシンプルで短いこの絵本を、どんなふうに“長く”したのか・・・ たぶん、主人公マックスがかいじゅうたちの島で、絵本のように踊ったり遊んだりするだけではなく、もっと派手な大冒険をするんだろうな、何かワルモノが出てきてみんなでやっつけたり、魔法のお宝を探したり・・・、などと思っていたのです。 でも、違いました。マックスもかいじゅうも、このお話の原題(Where the Wild Things Are)にあるように、ワイルドに暴れまくっていましたが、最後まで、欧米のファンタジーの定番である悪役もお宝も、出ませんでした。 絵本の絵にはマックスとかいじゅう(と犬)しか描かれておらず、あとは「おかあさん」が文に出てくるだけですが、映画ではさすがに、マックスのママとお姉ちゃん、お姉ちゃんのボーイフレンドたち、ママの恋人らしき男性などが出てきます。マックスの両親はどうも離婚していてパパはおらず、ママは仕事で多忙。お姉ちゃんもボーイフレンドたちと出かけてしまう。誰も悪くはないけれど、家族がばらばらな現代家庭で、8歳のマックスは孤立無援。身近な人間関係がうまくいかず、いろんな物を破壊し、暴れます。 この重たい状況は、マックスがかいじゅうたちの島へ行ってからも消えないのです。家族のように一緒に暮らすかいじゅうたちの間で、人間関係、否、かいじゅうかんけいがうまくいっていない。 中でもキャロルという名の縞模様のかいじゅうは、孤独感から自暴自棄になって家をこわしています。登場した時から、マックスそっくりなんですね。 かいじゅうの王様になったマックスは、現実世界でのうっぷんを晴らすがごとく、かいじゅうといっしょにたたき壊し、転げ回り、けっとばし、投げつけ、文字通り体当たりで仲良くなろうとします。マックス自身は一人一人のかいじゅうと信頼関係を結びますが、しかし結局、こじれてしまったかいじゅうかんけいを修復することは最後までできませんでした。 キャロルが自分でつくった、“みんな仲良し理想の世界”みたいな模型が、キャロル自身の手によってめちゃめちゃに壊されてしまったシーンが、切なくも象徴的です。マックスはその残骸の中に、小さなハート(愛)のしるしを刻むことができただけでした。 ファンタジー世界にさえこんなにも深刻に影を落とす、人間関係のきしみ。 それを修復する、魔法のアイテムも、奇蹟の大団円もないままに、マックスは現実世界に帰ってきます。 エンドロールになって流れた音楽で、「love,love,love」と連呼するように歌っているのを聞くにつけ、小さなハート(愛)で一生懸命努力しなければ、もはや家族という最も身近な人間関係さえ維持できないのだろうか・・・と、ふと考えこんでしまいました。