海に憧れた英雄トゥオル――トールキン『終わらざりし物語』冒頭
今日は、前回とりあげたエアレンディルの父トゥオルのご紹介です。 トゥオルの名は『指輪物語』には出てきません。『シルマリルの物語』でも、いとこのトゥーリンに比べると印象が薄い感じです。 けれど、トールキンが重要視したモチーフ“エルフ乙女と結婚する人間の英雄”の三人のうち、一人はアラゴルン、一人はベレン、そしてもう一人がトゥオルなのです。映画化のおかげで邦訳の出た『終わらざりし物語』の冒頭の章で、彼の生い立ちがくわしく語られています。 両親を戦さで失ったトゥオルは灰色エルフに育てられ、次にモルゴス(悪)側の奴隷となり、数年後に逃亡し、孤独な無法者となります。やがて彼はエルフの道をたどって西へと旅し、ついにある日、夕陽の沈む大海の岸へ到達します。 トゥオルはただひとり崖の上に立ち、両腕を広げた。心は憧れに満たされた。かれは大海を見た最初の人間だったと言われる。そしてエルダール(=エルフ)を除き何人(なんびと)も、かれのこの時の憧れよりも強い思いを感じたことはなかったとも言われている。 ――『終わらざりし物語』山下なるや訳 その後トゥオルはわだつみの神ウルモと対面し、彼の使者として隠れ王国ゴンドリンへ行くことになりますが、 「参りましょう! けれど今、わたしの心はむしろ海にこそ焦がれます」 ――『終わらざりし物語』 トゥオルはゴンドリンのエルフの姫イドリルと結婚し、ゴンドリンが陥落した時は戦い抜いて脱出し、南の海辺へ逃れた後、海への憧れやみがたく、イドリルとともに西方へ船出しました。 人間の中でただ一人トゥオルだけが、エルフの一員として西方の楽園に迎えられたと伝えられています… 波瀾万丈、最上級の孤独と憧れとロマンスと悲劇をぜんぶつめこんだような、これぞまさしくヒーローの一生。 また彼の性格がすてきなんです。(ニーベルンゲンの英雄ジークフリートに似て激しく悲劇的な)いとこのトゥーリンとはちがい、熱血漢だけど謙虚でつつましく、孤独や苦難にもひねくれず、友には優しく、何というか、理想的なんですね。 と、こんなに私がトゥオルびいきなのには、実はわけがありまして… 何年も前に私は自力で原書“UNFINISHED TALES”を読み始め、トゥオルの章だけ何とか読み切ったのでした。(といっても、トゥオルがゴンドリンへまさに着いたところで、残念ながらトールキンの遺稿は未完のまま終わっています。) 次の章はトゥーリンの長い物語でしたが、あまりの暗さに途中でやめてしまい、原書も本棚の奥で眠っていました。 ところが三年近く前、翻訳を出すという話が聞こえてきたのです。 邦訳『終わらざりし物語』の訳者は「山下なるや」と記されていますが、あとがきを読めば分かるように、この人物は「トールキン研究会『白の乗手』」の翻訳チームの化身です。 そして、このファンクラブの末席の端の端の端に名を連ねている私も、ほんのちょっぴり翻訳のお手伝いをさせてもらうことができました。第一部一章「トゥオルおよびかれがゴンドリンを訪れたこと」の校正作業(と第三部四章五章あたり一部)です。 そんなわけで、一人でも多くの『指輪物語』ファンに、『終わらざりし物語』を読んでみてほしいHANNAでした。