STOP!『競争・テスト漬け』に思う(続1)
「STOP!『競争・テスト漬け』」は、大阪教育文化センターの第26回共同研究集会の集会テーマで、今の大阪のこどもたちが、競争とテスト漬けで、多大な犠牲を強いられている現状を、象徴しています。この「競争・テスト漬け」をSTOPさせる上で、一つの視点を提起したいと思います。 それは、「教育における競争」と言うことです。「教育における競争」をめぐって、競争至上主義から競争完全否定まで、様々な意見や考え方が存在します。冒頭の研究集会の趣旨は、「教育における競争」を全面否定するものではなく、ある程度の競争を肯定するものとなっています。もちろんのこと、過度な競争は否定されています。 この「過度な」競争に大きく影響を及ぼしているのが、こどもたち自身ではない第三者による強制です。現状では、その発意はともかく、多くの学校において、教師を通して、競争の「強制」が行われています。そうでない学校もあると言う意見もありますが、まだまだ少数に過ぎません。 このように、今の日本のこどもたちに大きな犠牲を強いていると言われている「教育における強制的競争」を、歴史的に見ていくこととします。親子間の教育から大学教育まで、「教育」と言う活動が発生して今日まで、ある意味では強制的競争は不可避的に存在してきました。 特に、古くは学問所や寺子屋、新しくは学校や学習塾などの、集団的あるいは制度的な教育が始まると、大局的には、強制的競争は飛躍的に増大し、それ以後この傾向が続いています。しかし、それも時期的には、大きな節目を読み取ることができます。 その節目は、近年の日本に絞って見ると、敗戦期・高度経済成長期・バブル経済期の三つの時期が、大きな節目となっています。まず敗戦期までは、強制的競争は、制度的教育を受けている一部のこどもたちに限られていました。敗戦までにも公立の学校がありましたが、それでも一部のこどもたちは、貧しさのために、学校へ行けませんでした。 敗戦後、日本国憲法により、初等教育が「義務教育」となり、ほぼ全てのこどもたちが小中学校へ通うようになると、強制的競争は、ほぼ全てのこどもたちへ普遍化します。それでも、教師のみなさん方の努力や、こどもたちの取り巻く環境により、強制的競争は、それほど過度でもなく、こどもたちの多くは大きな犠牲を受けませんでした。 しかし、高度経済成長期に入ると、「受験戦争」に象徴されるように、学校の成績と言う一面的な「学力」が、こどもたちの将来や人生を大きく左右すると言う、ある意味で間違った風潮を醸成します。そのことにより、学校と言う制度的教育の場で、強制的競争がエスカレートします。 さらに、バブル経済期に入ると、「金のためなら何でもあり」の考え方が、企業・集団・組織・公人・個人を問わず、一部ではありますが、浸透・拡大していきます。現在進行中の、日本の教育における、過度で極めて問題のある強制的競争は、目的のためなら何でもありとする、その恥ずべき考え方に立脚しているのは言うまでもありません。(続く)エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。