年寄りが悪い
かつてイラクで三人の日本人が捕まり騒動となりました。 そのとき「自己責任論」がひとり歩きして、さも自己責任が悪者のように語られたことを覚えているでしょうが。いまもって、この呪縛から日本人は抜けられず「自己責任」という言葉にネガティブなイメージを投げかけます。 でも人生は自己責任。 古代ローマ帝国においての「奴隷」の定義とは、足を鎖でつなぐことにはなく、あるいは身体のおおきな男女を「交配」させたといわれる米国のそれでもなく、「人生を自分で決められない身分」 とされていたと、塩野七生さんの「ローマ人の物語に」ありました。 イラクの事件を「騒動」と称するのは、そのあまりにも粗忽な責任への自覚のなさと、それに連動した国内の政治活動から呆れてのことで、当時は本稿でなんども繰り返したものです。 昨日、地下鉄に乗ると、20代前半とおぼしき若者が、どうどうと「優先席」に座っています。それほど混雑しておらず、優先席は専用席ではないので、まぁいいでしょう。そして、どうどうと携帯電話を操作します。 注意しようかと逡巡します。そして反対側の優先席を見ると「iPhone」らしきものを操作しています。らしきものというのは、仮に注意した際に「これ、iPod touchだけど」 といわれる可能性を考え、やめてしまいました。また、総務省の見解として、携帯電話の周波数がペースメーカーなどに干渉しない帯域を使うようになってきており、今後ガイドラインを見直すともいわれています。 そして「なし崩し的」に電車内での携帯電話の使用は解禁されようとしています。 それもいいでしょう。古代ローマ人の基準で言えば、我々は奴隷ではなく、電車内で携帯電話すると決めることができる身分なのですから。 近未来に、iPadやその発展系で、持ち運びができる立体ディスプレイ型のコミュニケーションツールが登場=仮にこれを「i Real touch」と名付けます=したとして、それで車内で別空間にいる誰かと「対話」をするような社会が訪れても、そのとき、いま電車内で携帯電話を操作する人に文句をいう資格はありません。 なぜなら、電車内での携帯電話の操作は、電波による健康被害などもありますが、「公の空間にプライベート空間の権利を持ち込んだこと」 として語られることになるからです。 電車内の化粧も同じです。 それまでパーソナルエリアで行われていた連絡や検索を、電車内という他人と隣接する公の空間で行うことを「常識」にしたのは我々の時代と後世の人は嘆くかも知れませんし、そんなことも禁止されてたいのかと驚かれるかはわかりませんが。 優先席で操作した彼も、それを注意することをあきらめた私も同罪です。時代の空気を是認した共犯者です。 いま、日本国中が不況や閉塞感を嘆きます。少子高齢化がすすみ後期高齢者医療の問題など先行きは暗黒とされています。年金支給年齢はさらに引き上げが検討され、人生の先輩がたがこう嘆きます。「年寄りイジメだ」 返す刀で吐き捨てます。「こんな日本に誰がした」 わたしはその言葉を半身でかわし、籠手を撃ちます。「あなたたち」 と。 人生の先輩方・・・面倒なので本稿では「年寄り」とします。 年寄りがいまの日本を創り出したのです。戦後復興も年寄りのお陰で、それにより現在の豊かな日本となり、われわれ後進が飢えることなく暮らしていけるのは、年寄り連中が粉骨砕身してくれた果実です。 だから若造どもが「借金ばかり作りやがって」と憤る気持ちは分からんでもありませんが、電車内からも彼女に愛のメッセージを届ける携帯電話を苦もなく買える現代日本はその借金を作った年寄り様のお陰様です。 年寄りはこう反論するかも知れません。「俺たちが借金を使ったわけではない。政治家が悪いんだ」 ならば踏み込み袈裟切りにします。「その政治家を選んだのはあなたたち」 私の知る限りにおいて、少なくとも戦後の日本は民主国家だと記憶しています。正しくは戦前より政治は選挙により、おこなわれており先日までのエジプトのような独裁国家ではなかったのですが、これはいずれまた。 少なくともとしたのは、いわゆる「普通選挙」で、身分や資産に関係なく投票できる選挙制度が戦後日本の政治を動かしてきたという事実からです。ユダヤやフリーメーソン、あるいはCIAによる統治があったとする説を信奉していても、反論のご意見は丁重にお断りしておきます。迷惑なので。 つまり、戦後60年以上、日本の民衆が政治屋を選択してきたということです。 古代ローマにおいても、「投票権」はローマ市民権の保有者で共和政体から帝政にかわっても、最高指導者である「執政官」は投票により認証されました。 歴史が苦手な方のなかには、オクタビアヌスよりはじまる帝政を「王様」と混同する人がいますが、形式上でも市民の投票により皇帝が決まっていたのです。そのため、不人気な皇帝はたびたび暗殺されます。ときにはクーデターも起こります。そして最後は市民の投票でインペラトール(皇帝)が決まるのです。 古代ローマ人は指導者は自分たちで選ぶことを知っていました。 結果による不幸も受け入れます。なぜなら、「人生を自分で決められる身分」 であり、市民生活を送る以上、政治と人生は不可分だからです。 現代日本人は奴隷ではありません。日教組的史観をもつものとしても、戦後の日本人は奴隷ではないはずです。ごめんなさいね。マルクス・レーニン主義的な「資本家の奴隷」というのは馬鹿馬鹿しいので無視しています。こちらも抗議は受け付けません。 奴隷でない立場に立つので「年寄りが悪い」というのです。 こんな日本にしたのは年寄りなのです。 私も不惑になりました。18才で社会に出るまでは勘弁してもらったとしても、残りの「22年」には応分の責任があり私という年寄りも片棒を担ぎました。はじめて選挙に行ったのは都知事選挙で、「内田裕也」に投票したのもそのひとつです。 60才になれば42年。大卒で学士様になるための4年間を免除したとしても38年。日本社会の一因として、その時の「こんな日本」 への責任があるのです。 政治だけではありません。電車内での携帯電話の使用も同じですし、例えばオートバイの「追い越し車線からのすり抜け」 などもかつては「暴走族」しかやらないことでした。これはいずれ取り上げたいと思っていますが、自動二輪に「オートマ」免許が新設され、取得が容易になったこととモラル低下に相関関係があるとみています。 運転つながりで言えば、プリウスなどのエコカーに最近装備されるようになった「エゴ運転モード」 もそうです。エコではなくエゴです。自分の車の燃費のためにふんわりアクセルでそろりと発信し、ゆっくりブレーキで、制動距離を長めに取ります。その結果、ひとつの青信号で通過できる車両台数が減り、合流や右左折ができずに、無駄なガソリンを垂れ流すクルマが増えたとしても、自分の燃費には関係がないという「エゴモード」です。 エコの美名のもとにエゴ運転が是認されつつあります。 これを実践し、あるいはそれに異議を唱えないという消極的支持により、未来の日本が作られていきます。 繰り返しますが、「こんな日本」とは我々が作り、民主党政権を挙げるまでもなく、政治は我々が選択肢、借金ばかりの体質は、バブル崩壊後の自民党政権が口火を切り、それを支持したのは、私も含めた年寄りです。ゴメンね。 だから、私は政治が悪いと投げたりしません。政治を決めるのも自己責任。奴隷になんかなりたくないので自分で決めます。 そしていいます。「年寄りが悪い」と。 未来の自分への戒めも含めて。