巧妙に仕組まれたやらせ
最近、ぞっとすることが多くなりました。夏風邪ではありません。 株価の下落に無策の日本政府でもありません。慣れましたというか、自民党政権時代に株価が下がれば政府の責任とがなり立てていたマスコミとエコノミストが異常だっただけで、為替に関してはもう少し、手を打って欲しいですが、市場に任せるということでしょう。 全体主義の恐怖です。将来のエネルギー戦略の策定に向けた公聴会で東電をはじめ、電力関係者が発言したことを「やらせ」だとして場内が紛糾し、その後、政府は電力関係者に発言させないことにしました。 広く国民から意見を聴取する会です。電力関係者は国民ではないようです。電力関係者が原発維持に意見表明したとして、それが個人の思想信条ならば封殺するのは憲法違反です。これがまかり通るのは遵法意識の低い民主党政権ならではですが、少なくとも原発や電力についての基礎知識は、「福島の事故が起こるまで知らなかった」 と宣う素人よりは詳しいことでしょう。その彼らの知見を排除しているのです。全体主義では個別の意見より、全体の意思が優先されます。全体と言えば聞こえは良くとも、導くもの次第でナチスも国民の総意で選ばれた指導者層です。 ナチスの例は極端ではなく、一度全体主義が浸透すると間違っていると声を上げても、声を上げる行為自体が封殺され、抹殺され、外部からみて賢明な意見も、全体の内部の論理でしか評価されなくなります。 さらに全体側は常に正しいという倫理が構築されるので、その反対に存在するものが無惨な扱いを受けても同情する心など生まれません。 いま、ある東電を筆頭とする電力会社への批判を上げます。・再稼働反対・電気代を値上げするな・電力は安定供給しろ・社員の給料をもっともっと減らせ・社長は土下座 仮に、東電の社員が社内会議を経た総意のもとに、福島原発を破壊して今の惨状を生み出したのなら、まだわかります。しかし、未曾有の大震災が引き金であることは疑いようがない事実でしょう。 事故対策や対応などに問題がないといっているのではありません。「東電には何をいっても良い」 という空気を批判しているのです。これはイジメと同じです。 それとこれは何度も指摘していることですが、東電の抱える問題の大半は破綻処理して国有化すればクリアになるものばかりで、それを避けた政府が自体を混乱させているのであり、現在筆頭株主になったのですから、いま現在でも打つ手は沢山ありながら何もしないのは民主党であり、それを生み出したのは我々なのです(無論、わたしは投票していませんが、責任がないというつもりはありません)。 そして全体主義に陥ると自己批判という習慣がなくなります。 自己批判とは存在の否定に繋がるからです。というか全体を批判するものは全体の敵として抹殺されます。 その最たる例が「意見公聴会」での電力会社社員への糾弾です。 彼はいわば「アウェイ」と想像に難くない地に乗り込み、身分を明かして主張を展開しました。議論を是とするなら、立場の違う意見に耳を傾け、受け入れられること、られないことそして自分の主張と照らし合わせて、自説を修正し、あるいは自説を磨き上げるのが作法です。 ところが意見どころか、その人の存在から否定を始めます。 あれが全体主義の恐ろしさで、魔女狩りと同じです。 もちろん、議論という高等な大人のコミュニケーションが苦手な幼い人も意見を述べて良いのが公聴会で、自分以外の意見を大声で阻害することもあるでしょう。しかし、政府が参加そのものを禁止したのですから恐ろしい話しです。 大衆迎合であり言論封殺で、思想信条の自由を侵す行為であり一昨年、東京都のいわゆる「非実在青少年」の漫画販売規制に関して立ち上がった漫画家や有識者(笑)が、盾にしたものですが脱原発には閉口します。というか、重なる人も多く、するとダブルスタンダード、二枚舌で、所詮はその程度なのだ唾します。 人気商売の人たちは、人気のあるほうにおもねり、それも全体主義を加速させることも添えておきます。 一方で、原発ゼロを主張する側に「活動家」が紛れ込んでいることは、デモや集会の度に立てられている「のぼり」をみれば明らかです。 そんなことはない、一般の市民が・・・というのは幻想です。 感情的に脱原発を訴えている一般の市民はいるでしょうが、脱原発をこう記せば分かりやすいでしょう。「反核」 活動の中核を担うのは活動家です。そして活動家の目指すところは国家解体です。そんな彼らは公聴会から除外されません。原発や電気、ともすれば産業や経済にすら疎く、市民活動しかしてこなかった菅直人のような連中がエネルギー政策を左右するのです。 あ、そうか。菅直人はいまだに民主党の新エネルギー政策を担当しているので辻褄が合いました。失礼しました。 電力会社社員が意見表明したことを持って「やらせ」 と批判し、ついには憲法まで無視するに至りました。そしてこれを批判する声は国民にありません。「やらせ」という事実のすり替えもありますし、いまの全体は電力会社をなぶることに正義という名のエクスタシーを覚えているからです。 しかし別の角度から見ると、巧妙に仕組まれた「やらせ」とみることもできます。 電力会社社員というスケープゴートをだすことで、特定の思想信条に偏った憲法違反の「公聴会」を是認することに民主党政府と活動家達は成功したということです。 これを「前例」とすれば、政府はなんでもやれます。 例えばいま話題の「オスプレイ」もそう。 公聴会を開いたなら、防衛関係者や米軍に近い人の参加は「やらせ」と批判されることでしょう。 安全性の確認と声高に叫んでいるものに論拠は乏しく「事故率」 でいえばオスプレイは基準を満たしており、片翼が接地し爆破炎上する映像が繰り返し流されますが、あれは試作機で21年前のものです。 21年間、改良も改造もしない機体を米軍が実戦配備することなど論理的な思考では思いつかない発想です。 すると確率ではなく絶対を求めます。 これは理屈に過ぎません。そりゃぁ事故ゼロは理想です。 しかし、それがあり得ない現実であることを普通の大人はは知っているはずですが、全体主義という病に犯されると、ありもしない幻想にリアルを見いだすから厄介です。 これが生み出される背景は全体主義者は内部の論理で世界を完結させるからです。日教組の論理や九条を守る会の屁理屈もこれと同じです。 そしてオスプレイは兵器です。兵器には軍事機密が詰め込まれ、同盟国でも明かせない秘密の宝箱です。これを開けて安全性を確認できないのかというのは防衛も外交も素人どころか、隣の家の息子が自動車で事故をしたからと、彼の安全運転技術が確認できるまで、ウチの前を走らせるなといっているのと同じです。 普天間基地の周辺住民の安全性確保とは別の次元で議論しなければならないものまで同じ箱に入れ、同じ尺度と偏った正義で反対をぶちまけているのが全体主義という病に落ちたいまの日本です。 わたしがゾッとするのは、こうした社会です。 反対意見は封殺され、まともな議論はできなくなり、全体が喜ぶ意見だけが真実とされ、国民は熱狂のまま破滅へと向かいます。