誰も責任を取らない再稼働反対
私事ながら今日は結婚記念日で、式は明日の長崎原爆の日で、そんな日にやることに抵抗感もあったのですが、妻の親戚が新潟で農業関係の仕事をしており、式を挙げるなら田圃の手間がかからない真夏か年末と義父に指定されていたからです。 そして結婚を許可する条件は式を挙げること。 なかば嫌がらせのように細かな条件を出されましたが、とにかく結婚は本人達のものという考えに私も賛同しますが、言葉を足せば「本人たちだけのものでもない」 というのも事実です。感情的にも法律的にも姻族という親戚になるわけですから、妥協できることは妥協する方が得策と、この日を選んだのでした。 入籍を前倒しにしたのは「フジテレビの日」というのは半分本当の理由です。当時のウジテレビ・・・もとい、フジテレビはこの日の一週間前から電波を私的利用して自己宣伝を繰り返したのは、いまの「お台場合衆国」に「韓流マンセー」を足したぐらいえぐいもので、これをみれば記念日を忘れることもないだろうという目論見です。 そして残りの半分はやはり長崎であり、ソ連が侵略してきた日は避けたかったことであり、また、式と同じ日というのは義父のいやがらせへのささやかな抵抗だったりします。 いまでは義父と仲良く酒を酌み交わし、NHKラジオと朝日新聞を情報源とすることから構築された世界観を修正することを楽しみにしております。 その義父から結婚当初くりかえし言われたのが「性格の不一致で離婚するな」 ということ。性格は違うのが当たり前、それを乗り越えるのが夫婦だということで、酔うと一晩に3回は繰り返されたものです。 一時の感情で行動するなと言う意味が込められていたのでしょう。 わたしももちろん、彼女の人生を預かったのですから、それは当然と理解していました。 さすがにこれは公然と語ることではありませんが、妻以前の色々な「交流」のなかで泣かせた人もなくはなく、別れに未練はありませんが、とった態度や行為で傷つけたことを反省はしているからです。 人生を預かったという表現を田嶋陽子先生は嫌うかも知れませんが、それは短絡的な片方からの見方で、多分、妻はわたしの人生を預かったつもりでいることでしょう。 それをお互い様というのですが、われわれ夫婦は逃げも隠れもすることができず、独立してからは商売でもパートナーとして互いの人生にそれぞれも責任をもって生きております。 それは結婚でふれた「姻族」に及ぶこともあります。 例えば私の血縁が倒れたときも、妻は文句のひとつもいわず支えてくれ、わたしが仕事で動けないときは、代理として動いてくれましたし、役所関係の手続きでは、私以上にわたしの家族のために働きました。 自分のことを自分で語るのは美学に反するのですが、妻の家族に色々あったときは以下同文です。義母が倒れた際、義父より見舞いの回数が多かったこととだけは添えておきます。 責任です。であるがゆえに、妻に負わすことができない責任が発生したとき、わたしは親族でも切り捨てます。その親族と話し合った上で、どうしでも相容れないときに、血族を取るか妻を取るかで妻を選んだのは、彼女の人生を預かり、おなじく預けている責任からの決断です。 どちらにも良い顔をした先にまつのは破綻です。 さて、本日予定していた野田首相の再稼働反対デモの首謀者との面会が先送りとなりました。民主党の伝家の宝刀(量産型)なので驚くこともありませんが、デモを繰り返せば首相に会えるそうです。 毎週金曜日に官邸周辺で行われるデモを礼賛する声が高いのは主に新聞メディアで、かつての学生運動と重ねた論調は、単なるノスタルジーに過ぎません。メディアは左翼崩れや、学生時代に丘サーファーのようなファッション左翼が少なくありません。坂本龍一もこの類です。 たかが電気。電気仕掛けのカンペを見ながらと言い放ったこの人、先週のプロパガンダワイドショー「報道ステーション」に出演した際、マフラーに長袖で、この日の東京の気温でこのいでたちは「たかが電気」でエアコンを効かさなければ辛すぎるのですが「自分のことは棚上げ」は左翼の伝統芸なので驚きもしませんが。 端的に言えば再稼働反対デモは「民意」ではありません。 正しくは「国政を動かす民意」 ではないということです。 デモという意見表明は結構。言論人が筆を持ち、ワープロを叩き反対するのと同じです。言論の自由、表現の自由が認められているのですからどうぞご自由に。 しかし、議会制民主主義において政治に直接影響を与えることができるのは、それぞれのレベルの議員です。 仮にこれを飛び越えて「民意」が反映されるのであればそもそも「議員」などいらないのです。 そして「議員なんかいらない」という素朴な感情にはこう問います。「誰が法律を作るの?」 ニヤリと笑ったあなたはご存じですね。「官僚」です。 この20年ですっかり定着した「官僚悪玉論」との整合性がとれないのです。 特に原子力政策において経産省の天下りと批判を受け、やり玉にあげられる「原子力ムラ」の一翼を担う官僚を野放しにしろというのと「議員はいらない」は同義なのです。 だから民意を全てに反映させれば、とはオタク畑の文芸評論家 宇野常寛氏によるNHK「日曜討論」で主張で、いまのネット技術を念頭に置いていると思われるのですが、これが実現した暁には、我々国民は「カネミ油症救済法案」から「尊厳死」、そして何より「予算案」 のすべてに目を通し、可否を下さなければなりません。さらにこの理屈を正しいとするなら、「舎人三丁目の老朽化したガードレールは、いつ交換するのか」 といった自治体レベルの案件も背負わされることになります。 もちろん、ラーメン屋はラーメンを作りながら、子育て世代の主婦や主夫はオムツを替えながら、法案に目を通し、その意味するところを考えなければならないのです。わたしも多少はものを知っているほうですが、これが農業や林業となると専門外。正しいジャッジを下す自信は皆無です。 いや、原発のような重大な問題だから国民の声を。 というのは正論のような詭弁です。重大な問題だから「専業」として国民に雇われた議員が検討すべき課題なのです。 その点、山口知事選に出馬した脱原発アイドルと評される飯田哲也さんの行動は理に適ったもの。我が国では主張や志があり政治家を目指すことは制限されません。 結果は落選でしたが、その行動だけは評価していたのですがその後の主張が残念です。「知事選では25万票対18万票で負けたが、18万票は私の 訴えた脱原発への信任だ」 とは先週末、デモでも飯田氏のスピーチ。 大きく二つの錯誤があります。 まず、多数派は脱原発ではない。少なくとも飯田氏の主張そのままを是認しなかったと言うこと。 次に「山口県民の民意」に過ぎないと言うこと。過ぎないというと山口県民にお叱りを受けるかも知れませんが、山口県のホームページにある県民数は601,568人です。 「区」に過ぎず、とかく嘲笑の対象となる我が町足立区の人口は「670,792人」です。1割以上も総数が多い足立区民の意見はそこに含まれていません。当たり前ですが。 数を頼りに正しいといえば都会の意見が有利になるのはその通りです。地方に負担を押しつけることを良しともしません。しかし、数を持ち出して正当性を主張していることに数を持って回答すれば、論理が破綻していることが明らかになるのでもちだしたにすぎません。 そして根本的な問題は、少数意見の全てを採用することなどできないということです。反対にこれがまかり通るなら、選挙のたびにあちらこちらから出馬する「羽柴誠三郎秀吉(青森県の実業家)」 さんが累計得票数をもって当選させろと言う理屈が成り立たなくもありません。 それを是とするならなにも言いはしません。 ただ最後に問います。「すべての原発がとまった日本の未来に誰が責任を持つのか」 脱原発派は「未来の子ども達のために責任がある」と再稼働を反対します。とても美しい言葉です。それでは原発が止まったあとの世界はバラ色なのでしょうか。 自然エネルギーは多少知識のある人間なら、いますぐ代替とならないことは常識です。50年後は分かりませんが、その50年間をどう凌ぐのでしょうか。世界が競争社会で、油断と停滞が死を招くことは、日本の家電メーカーがいま、教えてくれています。 グローバルスタンダードの世界では1秒後の覇権を争っており50年間をまってくれることなどルーピー鳩山ですら考えもしないことでしょう。 これは読者から教えて貰ったのですが、お隣韓国ではポスコ建設が、政府の立てる電力需給基本計画にのっとり原発を2基建設すると東亜日報が報じています。 連日産業の「敗北」が報じられる韓国は原発を増やし、日本が減らし、その先にまつ未来に誰が責任を取るのでしょうか。 飯田哲也氏の行動を評価したのは、知事というその「責任」を背負おうとした点です。 翻り「サイカドーハンタイ」と叫ぶのは結構。では、彼らの誰が、その先の未来に責任を持つのでしょうか。山本太郎さんでしょうか。坂本龍一さんでしょうか。千葉麗子さんでしょうか。落合恵子さんでしょうか。 大江健三郎さんだけでないことは確かです。高齢ではなく「勘違いだが、仕方がない」 的な論拠で「沖縄ノート」の主張を引っ込めないような人間性ですから。 誰も責任を取らない再稼働反対。 むろん、彼らだけを責めるつもりはありません。 なぜならこの国の舵を取る「民主党政権」になってから、だれひとり「政治責任」 をとっていないのですから。何度も言いますが、野田首相を筆頭に、震災直後からいままでの混乱と混迷と停滞の責任を誰も取っていません。菅直人時代に前原外務大臣(当時)が政治資金規正法に絡み辞任しましたが、あれは辞めずに追究されれば「公民権停止」に及び、議員辞職へと追い込まれるリスクから逃れる「自己保身」でしたから。 しかし、一時の感情で未来を決めていはないでしょうか。 かつて民主党に票を投じて、いま再稼働反対を唱えているなら責任を取るということが以下に難しい問題であるかを、娶った妻を護るためには親族する切り捨てる覚悟が責任を負うとうことであることを考えて欲しいものです。