駆け込み寺
姉と喧嘩をして、引越しをしたのは舌の根も乾かないご存知のように最近の話。私は、実家に帰りそびれていた。本当は、引越しをした9/20に帰る予定でいたのに急な引越しで帰れなくなっていた。翌週帰るつもりでいたのをなんだかんだと理由を付けて先延ばしにしていた。理由は、一つに、帰りずらかったのだ。自分の我侭を咎められるのが怖かった。もう一つは、姉の事を考えると私が実家に帰って先に言い訳をしたら姉が帰れなくなってしまうような気がしたから。今回の事は、誰のせいでもない。私たちは、喧嘩と言う形で離れ離れになったけれども自然の流れなのだ。私たちは、こうなることが一番よかったはずなのだ。私は、父に怒られることを覚悟していた。今回は失禁覚悟で家に帰った。実家のドアを開けて、ただいまーと殊更元気よく入った。母はいつもの笑顔で迎えてくれた。でも、私はドキドキしていた。ドキドキしながら、父のいる部屋へ、ただいまの挨拶へ行った。机に向かっている父は座りながら振り向いて、「はい」と一言、いつものように言った。私は、もう涙が出そうだった。いつものように、迎えてくれる両親の顔を見ることが出来なかった。親とは、なんと素晴らしいものなのか。子供の頃は小言を言われ、殴られてきたけれど今となれば、おかげさまでの一言につきる。今だって、本当は一言二言言いたいことはあるに違いない。「気を使いなさい」と目を三角にして、昔から怒っていた父が今回の事で、私に言いたいことがないはずがない。きっと、私が帰りずらい事を気が付いていたのだと思う。ここで、怒ったら結婚もしていない、恋人もいない私がもう、どこにも逃げる場所がなくなってしまうことを父は知っているのだと思う。私の父は、持ち前の癇癪のために随分昔に、自分の親兄弟と仲たがいをして25年経った今でも、会わずにいる。それがどんなに寂しく辛いことなのかを知っているのだと思う。そして、それを私たちに、母にも、言っても分からないことを知っているのだと思う。父から寂しいという言葉を聞いたことがない。寂しくないはずがないのに。私は、父のそんな気持ちを面と向かって聞いたことがない。聞いたことはないけれどそれがどんな覚悟で、どんな思いでいるのかは自分も随分長いこと一人で暮らしてきて、少しは分かるような気がしている。私は、実家を出るとき、殆ど、家出同然だった。もう、二度と戻らない積もりで逃げるように家を出た。若い私は、厳しい父が嫌だった。癇癪を起こして、殴る父が嫌だった。それが、私のためを思ってやってることだとは全く思えなくなっていた。家を出て、2年ほどした正月、母を通して、正月に一人でいるくらいなら、帰ってきなさいと連絡がきた。その時も、私は今回のように怒られるのも殴られるのも覚悟の上随分、気を張って帰った。父が仕事から帰ってきてお帰りなさい、ご無沙汰しています。といった瞬間、父が、ウムとすごいうなり声を上げた。次の瞬間、平手打ちが飛んでくると下を向いて目を瞑ったら「元気だったか。少し痩せたな」という言葉が振ってきた。私は、驚いて顔を上げた。父は寂しそうな嬉しそうな顔をして「自分の子供が出て行って、喜ぶ親はいない」と言った。その時の父の服も顔も、コタツの布団の柄も色も今でも鮮やかに目に浮かぶ。私はその時初めて、自分はなんて事をしてしまったのだと後悔した。若さとは、なんと残酷なものなのだと思った。その時、いつか、私は父の喜ぶような人間になろうと決めた。私が生まれてきたことが、責めて意味のないことにならないように。あれから、8年近く経っている。私はすぐに、30歳になる。30歳といえば、私の母が私を産んだ年齢である。それなのに、私は子供どころが結婚さえ見通しが付かず、未だに、両親の悩みの種になっている。それでも、今回の事で父は、私を責めなかった。お前はどこに行っても、どんな状況になってもきっと一人でやっていけるから大丈夫だとしきりに言っていた。それはまるで、私の不安を自分が背負ってやると言ってくれているようだった。いつでも、帰ってくればいいと。お前の家はここにあるんだと。遠慮なんていらないと。もう少し、余裕が出来たとき今度こそ何かできるといいなと思う。恩返しなんてことは、きっと父は望んでないと思う。私はそんな事を出来るほどの才能も頭脳も残念ながら持っていない。だけど、私ができることが、一つくらいはあるのではないかと思う。それでも、更に両親に望んでしまうことはどうか、私より長生きしてくださいということです。母はそれを聞いて、それより早く結婚してくださいというけれど。それは、丁重にお断りしておきました。