成瀬関次著『実戦刀譚』 - “戦時眼”で見た正宗 正宗抹殺論の根拠
“戦時眼”で見た正宗 戦線で見た正宗の話は、先著『戦ふ日本刀』の中に書いた。 正宗という刀が、実戦場裏で敵を斬った実記録は、 徳川時代に出た、湯浅常山の『常山紀談』と、拙著だけであろう。 小説や伝説には、沢山あるけれども、これは実話だけに、 誰も彼も好奇の目で読んでくれた事と思う。 刀剣日本の王者のように考えられているその正宗を、 “戦時眼”を以て検討し直す事は、時局柄若干意義のある事であろう。 正宗抹殺論の根拠 紀元二千六百年を記念する『名寶日本刀展覧会』が、二月十一日から三月十日まで、東京九段の遊就館に開かれて、筆者の拝観した二月二十八日には、御物以下天下の名宝二百八振りが、刀剣日本を代表するかのように展示され、休日でもないのに、拝観者がたてこんで、押すな押すなの盛況であった。 その名宝中に、日本刀中の随一として、古今内外に謳われている正宗が、たった一振り、それも長さ七寸三分、庖丁のような形をした、しかも無銘のものが、他の大反り幅広三尺豊かな大太刀や、堂々たる戦場往来の尤物の中に交わって、いかにも淋しいものであった。 出陣二百八振りの中、純粋の無銘刀はわずかに十四振りで、これらはいずれも『傳』と称するもの、すなわち何々と云い伝わったものという謂〔い〕で、正宗及びその一類六振りは、全部その無銘であるのが、あたかも一類の来歴を語りつくしている様に思われた。その六振りというのは、正宗の外に、弟子と称せられる貞宗の短刀二振り、卿義弘の刀二振り、廣光の刀一振りで、刀の出来はともかくとして、他の刀の総てが全部在銘であるだけに、何となく、“日陰者”のような気のされたのは、筆者一人だけではなかったであろう。 随分古い話だが、かつて皇室の御物御蔵刀鑑定に参与した斯界の権威者今村長賀という人が、明治二十九年の七月三十日から三日間にわたって「在銘及び眞正の正宗と信用すべきものは一つもない。」と讀賣新聞紙上に発表したのがもとで、その渦紋が大きくなり、ついに“正宗抹殺論”にまで発展し、爾来〔じらい〕正宗という人間と刀の“有無”が論議されつつ、やがて半世紀にたらんとする今日になっても、未だに本当の鳧〔けり〕がつかずにいる。 こうした議論のそもそもの導火線が、勅命による宮中での出来事であった、という犯すべからざる事実から胚胎している。それは明治十二年の事で、当時御物中の御剣真偽鑑別の委員として挙げられたのは、本阿彌成重、同長識、同忠敬、竹中公鍳、大橋留七、今村長賀の六氏。鑑別会議の議長は富小路侍従で、遠慮なく、事実について審議鑑別せよとの御趣旨であった。 この席上で、『夫馬正宗』というものが、どうも思わしくない、在銘ではあるが、宜しくないという事で、本阿彌忠敬が、祖先の名誉にかけて頑張った甲斐もなく、とうとう番外品に落ちてしまった。 当時成重氏は本阿彌本家を相続し、長識氏忠敬氏はその補佐格として、依然として日本刀剣界の大本山であっただけに、こうした結果は、著しく世の注目をひいた。 夫馬正宗は、八寸九分五厘の在銘物で、表に二筋の樋を通し、裏に梵字と棒樋のあるもので、来歴は、昔大阪の侍夫馬甚次郎という者の所持であったが、前田利常の手に入り、後いささか気に入らぬ節があるというので本阿彌光甫が払い下げ方をいいつかった。江州水口の加藤侯が、金四百枚で譲り受けたいと申し出たが売らない。ようやく四百五十枚で手に入れたのであるが、在銘でありながら、なぜか元禄年中に再鑑定の結果、正宗に相違なしと決定した事が、右の由緒と共に『名物牒』に載っている。 金四百五十枚は三千三百七十五両で、当時としては大金であった。それを斡旋し鑑識した権威ある子孫三人の前で、不良の札をつけられた。そしてその審議に列した今村氏が、後に正宗否定の番頭人となった。 かつてある画家が、正宗の絵画を制作する為に、二枚の下図を描いて、筆者の心持ちと一致するかどうかをたずねに来た事があった。一枚は鎌倉大巧寺所蔵の烏帽子姿を粉本としたものであり、一枚は入道した法眼姿であった。自分は、正直に、両方とも合致せぬものだと答えた。その上、こうした粉飾を施されたものよりも、いっその事、求道者のような面影の旅姿、例えば名もない山村に一握の砂鉄を手にして眺め入っているところとか、いぶせき鍛冶屋の内、鬢髪蓬々、浄服散火に破れ、身体異仙のごとく、朝暮工夫に練行す、といったような姿などいかがかとすすめたところが、画家は、腑に落ちぬらしい返事であった。 講談でやる、化け猫や九尾の狐などが、人間を喰い殺してその人間に化けていた話。その例が正宗にもあてはまるように思える。ある政策から立派な人間につくり上げ、偽造し変造して、人間も刀もまったく異なったものにしてしまった。慶長以後の正宗は、化けた正宗であると。 正宗というものについての、有りったけの文献やら見聞やらを総動員してみると、第一に、世に流布されている正宗の真正な刀が三千と称され、しかもその正宗刀がいずれも無銘であって、真の在銘刀は一振りもない事、第二に、正宗の素性伝記が、慶長以前の文献には全然ない事、第三に、同時代に正宗と称する刀工が各地に十数名あった事、第四に、古い戦場武功録、物斬り記録に正宗の名がない事、第五に、正宗没後約二百五十年後に当たる慶長前後に於いて粉飾作為された後が歴然たる事、第六は、慶長以降、刀剣の鑑定公許が本阿彌一家の独占であり、ことに正宗の鑑識については、絶対的に他人の容喙〔ようかい〕を許さなかった事、第七は、慶長以降有名な刀工が公然と模作と称してこれを作り、意に満てば、磨り上げ物に変造して世に出した事、の七つに分類ができ、この七つの事実こそは、化けた正宗の正体を物語るものであって、こうした事の片鱗が、世の正しい鑑識家の炯眼に映じている限り、正宗否定の雰囲気は、当分緩和されぬと思える。 正宗刀が大小三千振りもあるとは、明治二十九年の正宗論争の時に、本阿彌某氏のいった事で、爾来方面で引き合いに出されている面白い数字だが、事実正宗がこれだけ鍛えたかどうかは別として、天下の御刀究め所本阿彌一類十二家が、豊臣徳川両時代にかけて扱った数としたならば、一家僅かに二百五十振り、一代中に二、三十振りという事になるから、常識的に見て、当然な事で、この十二家でやった公然の折紙、内々の小札などは、事実は三千振り以上にのぼっている。 比較的に諸式の完備していた後世時代に刀を打っても、自信のある刀で一振り二十一日とされたものだというから、自ら砂鉄や吹きおろして鋼を鍛造してかかった鎌倉時代としたら、無論それ以上の日子を要する事と思われる。が、仮りに一振りの所要日数二十一日として、この三千振りを完成するには、年中一日も休まずに百七十二年を要する。正宗は八十一歳でこの世を去ったというから、生まれ落ちてから打ちづめに打ったとしても、なお九十一年はあの世で鍛えた勘定になる。しかもこの正宗が全部無銘であって、真の在銘刀は一振りもないというのだから驚く。 いったい、武器に銘を打つ事は、『延喜式』による朝廷の掟のひとつであって、世々代々の刀匠は、眷々としてこれに服膺して来たのである。然るに、正宗及びその弟子と称せられる卿義弘にはこれがない。俗に“卿と化け物は見た者がない”とか、“正宗の銘は打たなかったから無いのだ”とかいわれているのは、すこぶる意味深長な、味のあるいい振りとされている。銘は刀の目であるから、無銘はすなわち“目なし刀”で、一段と値の落ちるのが定則とされている。 正宗ほどの名工で、朝命に反してまでも銘を入れなかったという事は、そのままには受け入れられない。延喜式の掟を知ってか知らずしてか、本阿彌を名乗るある一人は「正宗は見識が高かったから銘を入れなかった。備前鍛冶あたりは、刀を鍛える事が商売だったから一つの宣伝の為に入れたのだが、正宗は北條氏に仕えていたから、それで名を売る必要がなかったので入れなかった。」と、本気になっていっている。朝命以上に見識が高かったとすれば、まことに恐ろしい心臓であり、不忠至極な所存で、後来名刀となるだけの資格はそれだけでも絶無だと、極論すればまあそういう事になりはしないだろうか。正宗が、北條氏に仕えて官刀を打ったという正しい文献記録は絶無であって、鎌倉北條氏の記録中には、正宗という名前さえもない。 こうした点が、正宗否定論をたてた急所であり、「在銘でこれが正宗と信用すべきものはただ一振りもなく、摺り上げ無銘の正宗は、豊太閤以来群雄収攬の爲政略上本阿彌をして製造せしめたのだ。」という論旨が成り立ったのである。 これに対して、本阿彌忠敬氏は、再び「在銘正宗は確実にある。それは、宮内省御物の夫馬正宗、本荘家に伝わる正宗である。」と論じた。この夫馬正宗は、最初に述べたように番外物に落とされて、つまり不良のレッテルが貼られたわけであるから、それを持ち出したって効力はない。 その後、本荘家の正宗(御物本庄正宗とは別個のもの。)と、尾州徳川家の不動正宗と、堀田家の正宗とが、在銘正宗の確実疑いなきものとなった。日本にある例の三千の正宗中、真正真名の在銘物は、たったこの三振という事にきまりかけたのだ。 ところが、不動正宗は、正宗の銘字の正の上から目釘穴へかけて、明らかに前にあった鏨〔たがね〕痕のある事が、拝見した人々によって異口同音に発表された。この中心は、そのままを写真にまでとられてある。ある大家は、これは明らかに初代廣光の作に相違ないとまでいっている。その後、この正宗から鏨痕が取り去られているという事を耳にした。 これで在銘三刀中のひとつがどうやら怪しくなったわけであるが、さらに、国宝審査に関係のある本間という人によって、「尾州家にある不動正宗と、堀田家の正宗とは一点一角も鑿〔のみ〕の運びに相違がないのに、本荘家の銘の鑿の運びが、右二者とまったく逆になっている」 と発表されている事で、そうすると、堀田家のと尾州家のとは同類で、本荘家のは別口という事になるのだが、とにかくこれ以上に云為〔うんい〕する必要はあるまいと思う。