山鹿素行『孫子諺義』巻第一 始計 "The Art of War" Chapter 1: Laying Plans 5-6
TroopsTerra Cotta warriors were commissioned by Qin Shi Huang Di, first emperor of China (enthroned 246 BC), to accompany him on his journey to the afterlife. They were discovered in 1974 by workers in Xi'An, Shaanxi Province, PRC.Photo by RedRockhopper 道者、令民與上同意、可與之死、可與之生、而不畏危也。 ※道者、令民與同意。故可以與之死。可以與之生、而不畏危。 道とは民をして上(かみ)と意を同じくせむるなり。 故に以て之と死すべく、以て之と生く可くして、危きを畏〔おそ〕れざるなり。 5-6 The Moral Law causes the people to be in complete accord with their ruler, so that they will follow him regardless of their lives, undismayed by any danger. 令は、使也、畏は、懼也、危難也、是〔これ〕孫子、五事を注して道の字義後世の疑惑を散する也、道は民より上におもいついて、死生一大事をも上ともになさんと存し、危〔あやうき〕にいたりても上の下知を重して主將とともにことをなす、是を道と云う也、たとえ文學あり才徳の稱美ある人なりとも、此〔この〕處かくるときは、道あるの人云うにたらず、民はすべて人民をさす、士卒ばかりにかぎらざるなり、これ國政にかかる言也、七計にいたっては士卒兵衆と直に軍旅の士をさせり。此〔この〕一句は主將道を存するのしるしを云えり、此〔かくの〕如く人民の思いついて志を一つにいたすことはかねて主將に其〔その〕道なくては、通じ可からざること也。往年此〔この〕一句に疑あり、此〔この〕一句をみるときは、道と云うものは民をおもいつかわしむべきための道也と云うに似たり、聖人之道は當然ののり(則)にして、人の思いつくをまつにあらず、孫子が謂う所道は覇者の説く所なるゆえに此〔かくの〕如くいえりと、今案〔こんあん〕此〔この〕説是實に道をしらざるゆえ也、道は人民のための道也、民人をのけて別に道なし、我〔わが〕道にかなえりと思うとも、衆心我に背く時は、道にあらざる也。凡〔およそ〕衆心向背之事、太誓に云う、民之欲るる所、天必ず之に従う、傳〔でん〕に云う、衆に違〔たが〕わば不祥、晋〔しん〕の郭偃〔かくえん〕云う、夫〔そ〕れ衆口は、禍福之門也、是〔これ〕を以て君子衆を省〔かえり〕みて(而も)動き、監戒して(而も)謀〔はか〕り、謀り度〔ど〕して(※言い聞かせて)(而して)行う、故に濟ならざる無し、内謀外度、考省〔こうせい〕倦〔う〕まず日に考えて(而も)習わば戎備(じゅうび)畢〔お〕わる、鄭〔てい〕の子産〔しさん〕云う、衆怒〔しゅうど〕は犯し難し、荘子天下篇墨子を論じて云う、恐らくは其れ聖人の道と以て為す可からず、天下の心に反し、天下堪えず、墨子〔ぼくし〕獨任〔どくにん〕すと雖〔いえど〕も天下を奈何〔いかん〕、天下を離れば其の王を去る也〔や〕遠し、是〔こ〕れ皆衆心の向背〔こうはい〕を考えて、衆ともに志を一にいたすのおしえ也、しかれども蘇子瞻〔そ しせん〕謂う所國を為むるものは未だ行事之是非を論ぜず、先〔まず〕衆心之向背を觀ると云うの説に至りては、又〔また〕古人の議論なきにあらざる也。直解に道字を解して孫子謂う所道は葢〔けだし〕王覇を兼ねて(而して)言う也と、其の説〔せつ〕詳〔つまびらか〕なることは詳にして、上向にいたりて、又兵法之實を得ざる也。兵法より云う時は、令の一字〔いちじ〕尤〔もっとも〕高味〔こうみ〕あること也、主將士卒の志を知〔しり〕て其〔その〕用法當座のつくりことのごとくにいたすにあらず、時にとって士卒の志をはかり、或〔あるい〕は賞祿し或は重罰して、人心を一つにするもまた道の一端と心得〔こころう〕可し也、三略に、軍國之要は、心を察して(而も)百務を施すと云えり、又〔また〕志を衆に通じ好悪を同〔おな〕じうするも同義也、案に七計にいたって主〔しゅ〕孰〔いず〕れか道有ると云うときは、此〔この〕道字専ら主にかかる言也、將は五事の一〔ひとつ〕也、しかれば、將の兵をつかうの道とみんことはいかが也。又云う民をして上〔かみ〕意を同うせ令〔し〕む、此〔この〕六字一句、令の字危を畏れずよりかえりよむべからず、上下をして一致令む、是れ道也、此〔かくの〕如くならば則〔すなわち〕死生を與〔とも〕にして(而も)危〔あやうき〕を畏れざる也。又云う令民與上同意(民をして上と同じくせむ意)を、此の六字一句、令の字危を畏れずよりかえりよむべからず、上下をして一致令〔せし〕む是道也、此〔かく〕の如くならば即〔すなわち〕死生を與〔とも〕にして(而も)危を畏れざる可き也。武經大全に云わく、令字講粗了す可からず、民の意最紛最強、豈〔あ〕に(※決して)上と同〔おなじ〕くし易〔やす〕からんや、惟〔た〕だ其〔その〕好惡を通じ甘苦を共にするは、自〔おのずから〕然〔しか〕るを期せずして(而も)然る之〔の〕妙有り、故に道之至る所は、與〔とも〕に死すと雖〔いえど〕も、自然意を同じうする難〔むずかし〕からず、是〔これ〕不令之令〔ふれいのれい〕為〔な〕り、何の畏危〔いき〕か之〔こ〕れ有らん、道字着實發揮するを要す。武經通鑑に云わく、西魏〔さいぎ〕の將王〔しょう〕思政〔おう しせい〕潁川郡〔えいせいぐん〕に守りたり、東魏〔とうぎ〕師〔すい〕十萬を帥〔ひき〕いて之〔これ〕を攻む、備〔つぶさ〕に攻撃之術を盡〔つく〕し、潁水を以て城に灌〔そそ〕ぎて之を陥〔おちい〕る、思政〔しせい〕事の濟〔な〕らざるを知り左右を率いて謂〔い〕いて曰〔い〕わく、義士恩を受け、遂に王命を辱〔はづか〕しむ、力屈し道窮まり、計出づる所無し、惟〔た〕だ當〔まさ〕に死を効し以て朝恩を謝す耳〔のみ〕と、因〔よ〕りて天を仰ぎ大いに哭〔こく〕す、左右皆號慟す、思政西に向いて再拝し、便〔すなわち〕自刎〔じふん〕せんと欲す、衆共に之を止め、引決するを得ず、城陥るに及びて曰わく、潁川士卒八千、存せる者〔もの〕纔〔わづか〕に三千人、終〔つい〕に叛〔そむ〕く者無し、此〔こ〕れ民をして上〔かみ〕意を同〔おなじ〕う令む是〔これ〕也。直解開宗合参に云わく、問う孫子〔そんし〕首〔はじめ〕に民をして上と意を同う令むと言い、呉子〔ごし〕亦〔また〕首に先〔ま〕づ和して(而も)大事を造すと言う、同〔おなじく〕曰わく、和〔わ〕、果〔はた〕して皆〔みな〕人和之〔じんわの〕旨〔し/むね〕に非〔あら〕ず歟〔か〕、曰わく、孫子〔そんし〕同〔おなじ〕と言い、呉子〔ごし〕和と言う、意〔い〕類せざるに似たり、然れども皆〔みな〕民の為に起見〔きけん〕す、同〔おなじ〕と曰〔い〕うは、民を同うする也、和と曰うは、民を和する也、斷然〔だんぜん〕人和を以て主と為す、但〔た〕だ道の同〔おなじ〕は上〔かみ〕之をして同〔おなじ〕うせ使〔し〕め、和は上〔かみ〕之をして和せ使〔し〕むるを知る、此〔かくの〕如く發揮せば、方に議論有り。李卓吾云わく、一に曰わく、道、孫子已に自〔おのづから〕註し得て明白〔めいはく〕矣〔かな〕、曰わく道者は、民をして上〔かみ〕と意を同うせ令〔し〕め、之〔これ〕と死す可く、之と生く可くして、(而も)危きを畏れず是也、夫〔そ〕れ民をして之と死生を同うす可くんば也、即〔すなわち〕手足の頭目を扞〔まも〕り、子弟の父兄を衞〔まも〕るも啻〔ただ〕ならず、過ぎたり矣〔かな〕、孔子謂う所〔ところ〕民〔たみ〕信じ、孟子の謂う所民信を得〔うる〕是也、此れ始計之本謀、用兵之第一義、而して魏武(※曹操)乃〔すなわち〕之を導くに政令を以てするを之を以て解く、基本を失す矣。魏武平生好みて権詐を以て一時の豪傑を籠絡して(而も)道徳仁義を以て迂腐〔うふ〕と為すに緣〔よ〕る、故に只だ自家心事を以て註解を作〔な〕す、是れ豈に至極之論、萬世共由之説なからん哉、且〔かつ〕夫れ是を道〔みちび〕くに政令を以てす、但だ法令孰行一句の經を解得せる耳〔のみ〕、噫〔ああ〕、此れ孫武子〔そんぶ し〕の以て至聖至神にして天下萬世以て復〔また〕加うる無しと為す所〔ところ〕焉〔これ〕者也、惜〔おし〕い乎〔かな〕儒者以て取らず、士故を以て讀〔よ〕まず、遂に判〔わか〕れて兩途〔りょうと〕(※両〔ふた〕つの途〔みち〕)と為り、別けて武經と為し、文を右にして武を左にす、今日に至りては、則〔すなわち〕左〔ひだり〕して又左す、蓋〔けだ〕し之を左する甚〔はなはだ〕し矣〔かな〕、是如くして其の樽俎〔そんそ〕之間に折衝し、戸庭を出でず、堂堦を下らず、(而も)變〔へん〕を万里之外に制するを望む、得〔う〕可けん耶〔や〕。 (つづく)