熊澤蕃山『集義和書』卷第十五「義論之八」 三三四
一一二の奥に入る 心友問う。いかなるをか士〔し〕というべき。 云う。義理を知るなり。五典十義其の中にあり。 問う。いかなるを君というべき。 云う。義理を立つる也。君の、義理に専〔もっぱ〕らなるは、臣の、忠を進むる也。人をすすむべきためにするにあらず。みづから(自ら)義理を尊ぶ也。臣下はその義に感じて心服す、服すれば忠あり。 問う。道を学ぶは義理を知るにあらずや。しかるに、今の問学する人義理を知らざるは、何ぞや。 云う。ただに経伝の上に義理を論弁し、或いは身に行〔おこな〕うと思える人も、真〔まこと〕を欣〔よろこ〕んで法(※形式)に落ちなどすれば、真の義理には通し。故に気質の美なる人の義理を知りたるにはしかざる学者多し。生まれ付き理を知るべき人も、学によって其の知〔ち〕ふさがり(塞がり)、おもむきあしく(悪しく)なりたるもあり。いにしえの人は文学なけれども、貴賤共に義理を知りたる人多し。君たる人、一人を賞して衆人〔しゅうじん〕悦〔よろこ〕ぶは、義理を以て賞すれば也。又〔また〕一人を賞して衆人そねむは、義理の賞にあらざれば也。源の義経、次信〔つぎのぶ〕(※佐藤嗣信)が志に感じて、又たぐいなかりし名馬を、合戦の最中〔さなか〕に、事かくべきをもかえりみず、引き馬にあたえられしは義理の賞也。しかる故に、人々給わりたる様に思えり。利心〔りしん〕の分別〔ふんべつ〕あらば、大将の不慮の死をすべきも馬也。十死に入〔い〕りて一生を得〔う〕べきも馬なり。二つなき名馬を死人にひきて(※与えて)すてんよりは、此の大事に臨みてみづからはなたず乗り給うか、若〔も〕したまわらば、生きて用に立つべき者に給うべきと云うは利也。利を以てあたえば衆の恨みあるべし。軍士の心そむかば、よき馬に乗り給うとも、何のかいかあるべき。故に、名将は功有りし者の子孫を取り立て、親の代に忠ありしをわすれず、筋目を尋ねてほどほどにめぐみ養う時は、衆みなたのもしき主君と思いて、己が身のみならず、子孫のためにも忠をはげますものなり。されば賞を得ざる者も得たるがごとくおもえり。義理を行いて私〔わたくし〕なければ也。孔子の春秋一経の奥旨〔おうし〕、一つの義理を立て給うなり。義を知らざるは夷狄〔いてき〕禽獣〔きんじゅう〕也。大学の理も、上〔かみ〕仁を好むときは下〔しも〕義を好むといえり。しかるに、上仁を好みて下義におこらざる(起こらざる/興らざる)者あるは、其の仁〔じん〕真〔まこと〕ならずして義なければ也。仁義は本一徳也。故に故に君子の仁は必ず義あり。 問う。今時〔いまどき〕筋目ある者を取り立て、善人をあげても、衆そねむ事あるは、何ぞや。 云う。利心のみにして弁〔わきま〕えなき者は、一旦さある(※そうである)事有り。少しの義理をもわきまえ心ある者は、しからず。ゆくゆく聞き伝えて服する者也。又にくく(憎く)そねましく思いし者の子孫にて、上よりは恩賞なくて叶わざる筋目あり、忠功あれども、其のさたなくおちぶれ居〔お〕るを見ては、かくあるまじき事とは思いながら、凡情の習いにて何ともいわざれ共〔ども〕、人々本心あれば、そこ(底)意には君のたのもしからぬ事を知るもの也。忠義の亡ぶる所〔ところ〕也。この故に、明君は、徳を賞するに位〔くらい〕を以てし、功を賞するに禄〔ろく〕を以てし、才を賞するに職を以てす。昼夜の奉公には小禄あり、当座の奉公には其の品〔しな〕の褒美あるべし。