道家思想篇 76 老子 論德第三十八
黃山 鰲魚峰夕落瞬間Photo by JIMI_lin 道家思想篇 76 老子 論德第三十八 「上德〔じょうとく〕は德とせず、是〔ここ〕を以〔もっ〕て德〔とく〕有り。 下德〔かとく〕は德を失わざらんとす、是〔ここ〕を以〔もっ〕て德無し。 上德〔じょうとく〕は無為にして、以て為〔な〕せりとする無し。 下德〔かとく〕は之〔これ〕を為〔な〕して、以て為せりとする有り。 上仁〔じょうじん〕は之〔これ〕を為して、以て為せりとする無し。 上義〔じょうぎ〕は之〔これ〕を為して、以て為せりとする有り。 上禮〔じょうれい〕は之〔これ〕を為して、 之〔これ〕に應〔おう〕する莫〔な〕ければ、 則〔すなわ〕ち臂〔ひぢ〕を攘〔ひ〕いて之〔これ〕に扔〔よ〕らしむ。 故〔ゆえ〕に道を失〔うしな〕いて後〔のち〕德〔とく〕、 德〔とく〕失いて後〔のち〕仁〔じん〕、 仁〔じん〕失いて後〔のち〕義〔ぎ〕、 義〔ぎ〕失いて後〔のち〕禮〔れい〕。 夫〔そ〕れ禮〔れい〕は忠信〔ちゅうしん〕の薄〔はく〕にして 亂〔らん〕の首〔はじめ〕なり。 前識者〔ぜんしきしゃ〕は道の華〔か〕にして愚〔ぐ〕の始〔はじめ〕なり。 是〔ここ〕を以て大丈夫〔だいじょうぶ〕は其の厚きに處〔お〕りて、 其の薄〔うすき〕に居〔お〕らず。 其の實〔じつ〕に處〔お〕りて、其の華〔か〕に居らず。 故〔ゆえ〕に彼〔かれ〕を去りて此〔これ〕を取る。」 上德不德、是以有德。下德不失德、是以無德。 上德無為、而無以為。下德為之、而有以為。 上仁為之、而無以為。上義為之、而有以為。 上禮為之、而莫之應、則攘臂而扔之。 故失道而後德、失德而後仁、 失仁而後義、失義而後禮。 夫禮者、忠信之薄、而亂之首。 前識者、道之華、而愚之始。 是以大丈夫、處其厚、不居其薄。 處其實、不居其華。 故去彼取此。 (About the attributes of the Dao) (Those who) possessed in highest degree the attributes (of the Dao) did not (seek) to show them, and therefore they possessed them (in fullest measure). (Those who) possessed in a lower degree those attributes (sought how) not to lose them, and therefore they did not possess them (in fullest measure). (Those who) possessed in the highest degree those attributes did nothing (with a purpose), and had no need to do anything. (Those who) possessed them in a lower degree were (always) doing, and had need to be so doing. (Those who) possessed the highest benevolence were (always seeking) to carry it out, and had no need to be doing so. (Those who) possessed the highest righteousness were (always seeking) to carry it out, and had need to be so doing. (Those who) possessed the highest (sense of) propriety were (always seeking) to show it, and when men did not respond to it, they bared the arm and marched up to them. Thus it was that when the Dao was lost, its attributes appeared; when its attributes were lost, benevolence appeared; when benevolence was lost, righteousness appeared; and when righteousness was lost, the proprieties appeared. Now propriety is the attenuated form of leal-heartedness and good faith, and is also the commencement of disorder; swift apprehension is (only) a flower of the Dao, and is the beginning of stupidity. Thus it is that the Great man abides by what is solid, and eschews what is flimsy; dwells with the fruit and not with the flower. It is thus that he puts away the one and makes choice of the other. ( Daoism -> Dao De Jing ) 「高い徳の人は徳を自慢(じまん)しない。 だから、徳がある。 低い徳の人は徳にこだわる。 だから、徳がない。 高い徳の人は何も行動しないが、何事も為(な)されなかったということはない。 低い徳の人は行動するが、故意になされる。 高い仁愛(じんあい)の人は行動するが、動機をもってするのではない。 高い道義(どうぎ)の人は行動するが、動機をもってするのである。 最も礼儀のある人は行動するが、誰もそれに従わず、 それで、腕をまくり、相手を引っぱろうとする。 だから、『道』が失われると徳がそこにあり、 徳が失われると仁愛がそこにある。 仁愛が失われたのちに道義がきて、道義が失われたのちに礼儀がくる。 礼儀は信義(しんぎ)を欠くことで、無秩序の第一歩となる。 予期された知識は『道』の外見(※)であり、愚行の始まりである。 ここから、偉大な人は真実を選びとり、外見をとらないのである。 彼は真実によって行動し、外見によって行動しない。 このように、彼は『道』のはたらきに従い、外見を見合わせるのである。 ※ 王弼(おうひつ)によると、予期された知識は最も低い徳のカテゴリーに属す。 王淮〔おうわい〕では、知性による見方、原始的巧妙ととらえ、だから、それは人の巧妙さと 知的熟練の行為と見ている。これは老子の教えと対立する。 このように、予期された知識は本当の真実であるよりも『道』の外見として分類される。 注釈 昔から、仁愛や道義について、儒者の教えが道徳性をつくりあげてきた。しかし、 老子(ろうし)と荘子(そうじ)によって、これらの徳は徳としてみなされなくなった。 このように、徳の本当の意味は、非差別、非区別、なかんずく非意志を自己養成する徳である。 老子はいう。 高い徳の人は徳を自慢しない。 だから、徳がある。 低い徳の人は特にこだわる。 だから、徳がない。 荘子は徳について注釈する。 徳がなしとげられると、本来の性質に戻ったといわれる。このように、徳を有った人が内面に とどまると思想をもたない。行為をしても迷いがない。心の深層に含まれるものは何もない。 つまり、徳をもった人は、黙想(もくそう)によって水準の高い完成へと達する。 徳は『道』と密接に関係する。中庸(ちゅうよう)の教えによれば、 「もし徳がなければ、『道』は理解できない」という。 第十六章は、徳の達成についてうまく説明している。 空虚(くうきょ)を熟視(じゅくし)して 真に静寂(せいじゃく)を守る。 万物はどれも盛んであるが、 私はそれらの無為(むい)をみつめる。 ものは絶え間なく動き、休まない。 しかし、それぞれのものは根源に戻ってしまう。 根源にもどっていくと静寂になる。 静寂になるということは存在の運命にもどることである。 これは徳の達成であって、老子は続けていう。 実在をすべて包みこみ、 すべてを包みこめば、自己はなくなる。 自己がないということはすべてが満たされており、 すべてが満たされれば、超越することになる。 これは達成した状態を示している。 (以下略)」 (張鍾元 著 上野浩道 訳『老子の思想』P.187 ~ 190 講談社学術文庫) (つづく)