成瀬関次著『戦う日本刀』 - 「軍刀修理班」 分捕り“日本刀” (181~184頁)
分捕り“日本刀” 曲阜縣城は、孔子廟及び孔子墓所の所在地であって、漢族支那随一の聖地、いわゆる儒教エルサレムで、四百余州のすみづみから来たり詣づるものがひきもきらない、おごぞかなる存在である。ここには城内外の廟墓のほかに、孔子代々の子孫が連綿と居住し、代を重ねる事七十七、当主は今回の支那事変進展と共に蒋介石に拉〔らっ〕し去られ、今は先代の七十六代の孔令〓(火+日,立 u715c)〔コンリンユ〕氏が復位して、居館至聖府に住居している。 この至聖府の主人公は、古来衍〔エン〕聖公という支那最高の栄爵者で、一面また国土なき聖王として、あたかもヴァチカンのローマ法皇のごとく、世界儒教信者の尊信をここにあつめ、兵馬政権の県外に立って、見えざる教権を支配して来たものである。 今日まで、支那に幾戦乱政変が勃発しても、ここに砲口を向け、この縣城一寸たりと犯す者あらば、全民衆の怨みを買うとされ、やはり兵乱の圏外にあって、今度の支那事変にもまったく安全であったのは、孔子の示教と永遠の徳の致さしむるところである。 ここを守るは馬籠〔まごめ〕部隊で、曲阜師範学校がその本拠、部隊長は仙台市某學校漢学の教職中応召した人格高潔の士で、この聖地守護者としてその人を得たものというべきである。 自分らは四月二日の午後一時頃泗水の桑田部隊からここに到着して旅装を解いた。宿舎兼修理室にあてられたのは、以前師範學校教官の宿舎であったという長い一棟の第一号室で、加古伍長は大二号室、室も広く、調度品もととのっており、明るく清潔である。連絡もとれていたので、到着すると直ちに修理刀が運ばれてきた。明日は神武天皇祭だから一日休養だというので、それから直ちに工場を開設して、修理にかかった。 直接の戦闘部隊ではないためか、血まみれの物凄い損傷刀はほとんどなく、動揺または自然磨損による鍔元、柄、鞘などの故障が多く、半日のうちに十振かたの修理をする事ができた。 この城内で押収した敵の遺棄諸兵器の中に、日本刀が三振もあった。うち二振は、支那式軍刀としたために、中心〔なかご〕は細く摺りへらされて原型をとどめず、一振は備前物の古刀らしく、一振はこれも古刀末期頃といったもの、ともに身幅のせまい、割に反りの浅い二尺二寸程の手頃さであった。一振は、新刀最上大業物『肥前國住陸奥守忠吉』と立派に銘のあるもので、割に錆びてもおらず、刃文もはっきりした独特の丁子乱れで、あたかも歯朶〔しだ〕の葉のように斜めに垂れ、黒みがかった錵〔にえ〕、深い匂い、それに刀が大振りで反り幾分高く、重ねも厚く、長さは二尺四寸ぐらい、実に見事な雄偉なものであった。 あちこちで、支那の将校から分捕った日本刀の話はよく耳にしたが、実物として見たのは今度がはじめてであった。日本の士官學校に学んだ将校はもちろんの事、その他にも彼是〔あれこれ〕とつてを求めて手に入れたものと見え、そうした日本刀も、かなり支那に流出しているらしく思えた。ことに、ここで見た三代忠吉のごときは、まったくのうぶで、内地だったら、目今〔もっこん〕のところ一千金は降るまいと思われる尤物〔ゆうぶつ〕であった。 翌四月三日は一天雲なく晴れ渡った祭日日和、風もなく、構内の李花はやや盛りを過ぎてへんぽんと散りかかる風情、内地の花盛りを思い浮かべながら、國旗を室の前に立てた。 正午には、師範学校の講堂で、馬籠部隊長が、衍聖公孔令〓(火+日,土 u715c)氏以下曲阜縣長、治安維持会の中心人物、有力者、日本側の各隊長将校その他を招いて、奉祝午餐〔ごさん〕会を催すというので、自分にも御招待があった。孔氏を主賓に主客百余名、主として日本側の余興(兵隊の中から選ばれた玄人素人)であるいはへそを撚〔ねじ〕らせ、あるいはお茶を沸かせ、時に軽く泣かせた。支那側の余興も一、二あって謹厳な部隊長の思い設けぬ手品の余興を最後に主客勧をつくし、支那側の発声で日本帝國萬歳を、日本の発声で臨時政府の萬歳を三唱して、聖地における日支親善の宴を閉じた。 みくにはや櫻かがやきあるらむか畝火〔うねび〕の宮のまつり日今日は かしはらの畝火の宮をはるけくも支那のひぢりの城ゆおろがむ 部隊長馬籠少佐はともに来て豊酒〔とよみき〕くめとつかひおこせり(祝宴に招かる)