成瀬関次著『実戦刀譚』 - 戦線日本刀の一瞥
戦線日本刀の一瞥 日本刀を見る方面は、武術家と鑑識家とでは自然異っている。 刀を使う事、物を切る事の奥義に達している人から見ると、 鑑識家のもって名刀としているものにも、時に不満を持つ場合があるであろう。 鑑識家のよいという刀の形体が、はたして実戦に適するかどうか。 それは、刀の霊性は見た目だけではわからないからである。 また、日本刀といえば、誰しもただ刀身のみを頭に置いて、外装は単なる付属物で、 あたかも人体と衣裳との関係のごとく見ているが、軍刀の機能発揮には、 刀身の製作と同等以上の注意と労力とが、外装、 特に柄の製作に払われなければならぬ。 某少尉が、再度の白兵戦で、なかば以上柄糸の切れていた軍刀の 最後の柄糸が切れ落ち、糊づけの鮫皮も柄木もバラバラに飛んでしまった。 やむなく包帯用の白布を中心(なかご)にじかに卷きつけたもので奮戦したが、 とうとう戦死した。武勲かくかくたる、だが無念至極の遺品であるその軍刀を 上官の伊藤大尉がもって来て、大曲りだけを直してくれとの事であった。 白布を練(ね)って飯粒で巻きつけたその刀柄を見て涙が出た。 「君、これを見て何と思う。」大尉の目にも涙が光っていた。 三月上旬?州での事であった。 柄折れの戦士には、不覚をとった残念な思い出がつきものであるらしく、 修理を待つ間にそれを物語ったのは、十人や二十人ではなかった。 ある人は市街戦で土壁にぶっつけて、ある人は砲車に引っかけて、 ある人は追撃中のから打ちで、ある人は馬上から落して……。 柄折れは、徳川時代の古い物よりも、新制式刀に多かった。 概して中心の短いものに多く、いずれも中心先より折れていた。 昔のままの拵えは、中心の短いものには、長くてがっしりした大目貫を 左右から押えつけるようにあててあった。決して単なる装飾ではなかった。 昔は、こうした細心の用意が加えられたものらしい。 『異説まちまち』という古書には、ある武士が、 傍輩(ほうばい)に眉間を切りつけられたので抜き合わせたが、 革巻の柄であって、それに血がしたたった為に手がぬめっておくれをとった。 この武士が切腹する間際に、 「若き衆必ず必ず革柄さし給うな」といった事を記してある。 戦地では、柄に皮革をかぶせる事が流行している。ある戦士が、 革柄を黄土の泥手でもって仕損じた話を聞いて、こうした記録も思い合わされた。 目釘が折れているのに気がつかずに、抜刀で敵の将校を追撃して 打ち下ろした瞬間に刀身がすっ飛んで長蛇を逸した話。 敵の急襲を受け抜刀せんとしたが発条(ばね)の故障で刀が抜けず、 遂に無念の最後をとげた話。 鉄鞘が刀身もろ共に曲がっているのに気がつかず、急迫して抜刀しようにも 抜けずして、敵の青龍刀に一刀やられた話。等々。 こうした不覚を取った悲惨な実話のほとんどすべてが、 外装に関したものであったことは、軍人も軍刀屋も、各々別な方面から 再思三省すべきであろう。 新古を問わず、刀は曲がってもなかなかに折れない。そのうちでも、 古刀は柔軟でどうかすると曲がる。 それでいて切れ味のよいのが古刀の生命であろう。 斬った数を五十人までは数えたが遂に数えきれなかったという某中隊の 『隊宝』は無銘の古刀であったが、刃こぼれは粟粒位のものが五つ、 刃まくれが二ケ所、身幅一寸、重ね二分二厘、長さ二尺三寸七分、 反り六分五厘という備前物で、刀屋に見せたら “数打物(かずうちもの)”として片づけられるものであろう。 機関銃丸が、鍔元から三寸ばかりの位置の木鞘にあたった。 鞘を貫いて古刀である刀身に一銭銅貨大のふくらみをつくった。 これは石丸部隊の某将校であった。このふくらみは一部刃にかかっていたが、 欠けてはいなかった。銅槌で叩いて直したが、毛程の疵(きず)もつかなかった。 これも無銘関物の古刀で、古刀ばかりではなく、 新刀にもこうした例はいくつもあった。 本阿弥光遜氏の日本刀に関する随筆の中で、 八王子の某が井上眞改の先の折れたのをそのまま所持していたが、 先っぽを誰かに盗まれた。後、それで殺人をした者が自首して出たので、 その鑑定をした。という話を読んで、 当時、眞改程の作品でも折れるのかなあ、と思っていた事であったが、 泗水で、桑田部隊某将校の佩刀井上眞改(寛文十三年二月)に、 大きな刃こぼれがあったのを見て、「眞改は脆いのか」と考えた。 初代是一、照包、といったような名のある刀にも、 かなり大きな見ばのよくない刃こぼれがあって、色々考えさせられた。 形体上の美術的条件の具備と、浅右衛門あたりの試し斬りから、 一躍名刀となったものも、実戦用としてはいかがか。 長運齋綱俊、手柄山甲斐守、というような、あまりに盛名のなかったのが、 実際には業物(わざもの)らしく、肥前忠吉あたりと、わざでは同格らしい。 三大忠吉で鉄兜を切った話、綱俊で薬盒(やくごう)ごと袈裟に斬った話、 祐定で鉄条網を切った話は事実である。祐定は新古とも数においては 第一位であり、まず実戦刀中の白眉であるように思えた。 世に埋もれた業物を戦場で推奨するというような事、 業物を実際的に発見するという方面まだ刀剣界に残されているように思える。 近藤勇が用いたばかりに、(実際は偽物だといわれているが) 虎徹の名がいよいよ高くなり、 四十七士外伝でやるかの忠僕助直の打った刀が益々有名になったり、 一大著述家でもあった水心子とその一統が盛名をはせ、 刀工が競って本阿弥や山田浅右衛門の宅へお百度を踏んだ話やらを思い合する時、 やはり宣伝の力で有名になった刀も相当にあるように思われる。 (続く)