龍潭寺(お地蔵ちゃん) -1-
龍潭寺(りょうたんじ)今日から遠州地方の代表的な名刹「龍潭寺」を掲載します。小堀遠州作「龍潭寺庭園」は 国指定文化財名勝記念物になっています。なお、通常ここでは画像を W400×H300 の大きさで掲載していますが、国定文化財をより細かく観てもらう由で、今回は W500×H375 にしています。そのため 画像の読み込みに多少時間がかかっていると思いますが ご了承下さい。 撮影 19/6/10(日)これから 遠州の名刹「龍潭寺」を紹介していきますが、まず最初に、寺の売店だけで販売している おみやげに大人気の「お地蔵ちゃん」を紹介します。 できればを‥ お地蔵ちゃん 高さ92mm、315g お願い地蔵「お地蔵ちゃん」 あなたの願いがかなったら、お地蔵ちゃんに水をたくさんかけてください。するとお地蔵ちゃんはだんだん砕けて元の砂に還っていきます。(注:形の維持に使用している接着材のため、完全に砂には還りません)後に残った光の玉は、あなたのお守り。光の玉の数だけ思い出と幸せが増えていきます。 願いが叶うといいね砂に還る『お地蔵ちゃん』遠州灘の砂からうまれた、不思議かわいいお地蔵ちゃん。このお地蔵ちゃんにあなたの願いをかけてみて。 お地蔵ちゃんの生誕地、静岡県浜松地方には「遠州灘の浜垢離」という民族伝統があります。これは、人の足の踏み入らない波打ち際の砂を年に1度持ち帰り、家族の健康などを願う天然自然信仰のひとつです。 お地蔵ちゃんは、この遠州灘の砂を固めて作られています。だからこの信仰のようにみんなの願いごとを叶える力になることができるかもしれません。 遠州灘の砂からうまれた、不思議かわいいお地蔵ちゃん。このお地蔵ちゃんにあなたの願いをかけてみて。 もしあなたの願いがかなったら、お地蔵ちゃんにたくさん水をかけてください。役目を果たしたお地蔵ちゃんは次第に元の砂に還っていきます。 後に残った光の玉は、あなたのお守り。ひとつひとつ願いが叶って光の玉が増えていくことは、あなたの幸せも増えるということ。 みんなが幸せをいいっぱい手にするよう、お地蔵ちゃんも祈っています。プロフィール 実は、このお地蔵ちゃんは砂でできています。お地蔵ちゃんに願いをかけて、もし願いが叶ったら水をかけて、さらさらの砂に戻すことができます。お地蔵ちゃんのどこかあったかくて、かわいくて、そしてこの雰囲気。合格祈願のプレゼントなどにも、かわいい願掛けグッズとして喜ばれています。 名 前 お地蔵ちゃん 誕生日 平成11年6月18日 身 長 92mm 体 重 315g 好 物 願いごと 苦手な物 水、涙 特 技 願いごとを叶える 寿 命 持ち主の願いが叶うまで お地蔵ちゃんってなあに? お守りやだるまなどは、安産や合格祈願、商売繁盛などに代表されるお守りの贈り物。でも願いが成就してもこれらをお寺に持っていって奉納、お返しするのはなかなか大変なことです。 この『お地蔵ちゃん』は、願いが叶ったらいっぱい水をかけてあげるだけ。お地蔵ちゃんは自然の砂に戻ります。また、お地蔵ちゃんの持っている願い玉は、昼間の光りを集めて夜になるとぼぅっと光ります。『お地蔵ちゃん』は、自然にもやさしく、遊び心も兼ね備えたかわいい願掛けグッズです。 お地蔵ちゃんっは本当に願いが叶えられるの?お地蔵ちゃんの生誕地、静岡県浜松地方には「遠州灘の浜垢離」という民族伝統があります。これは、人の足の踏み入らない波打ち際の砂を年に1度持ち帰り、家族の健康などを願う天然自然信仰のひとつです。 お地蔵ちゃんは、この遠州灘の砂を固めて作られています。だからこの信仰のようにみんなの願いごとを叶える力になることができるかもしれません。 お地蔵ちゃんが持っている玉はなあに?この光り玉は昼間の光を集めて、夜になるとほわっーと輝きだします。こうしてお地蔵ちゃんはみんなの祈りを毎晩、暖かく守っています。 そしていつか、みんなの願いごとが叶うとお地蔵ちゃんはもとの砂に還っていきます。(水をたくさんかけるとお地蔵ちゃんはだんだんと砂に戻ってしまうのです。)たとえお地蔵ちゃんは消えても、みんなの手に思い出の玉が残ります。思い出の玉 はみんながかなえた願いの数。大切な思い出と一緒に大事にしてくださいね。 HPより抜粋補足小堀政一出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』(小堀遠州 から転送)移動: ナビゲーション, 検索小堀 政一(こぼり まさかず、天正7年(1579年)-正保4年2月6日(1647年3月12日))は、江戸時代初期の武将。近江小室藩藩主。茶人、建築家、造園家としても有名であり、遠江守に任じられた事から、一般には小堀遠州(こぼりえんしゅう)の名称で知られている。幼名を作助、元服後、初めは正一、後に政一と改める。号は宗甫、孤篷庵。正室は藤堂高虎の娘。子に小堀正之、娘(池田重政室)らがいる。近江国坂田郡小堀村(現・滋賀県長浜市)の土豪で、父・小堀新介正次はもと浅井長政の家臣であった。浅井家が織田信長により滅亡後、長浜城主羽柴秀吉に仕える。その後、父・正次は秀吉の弟豊臣秀長の家老となり、政一もともに大和郡山城に移る。秀長の死後、正次は秀吉直参となって伏見に移る。この頃、父の進めもあって、少年期から政一は古田織部に茶道を学ぶ一方、大徳寺の春屋宗園に参禅し、大有と号した。関ヶ原の戦いで正次は徳川家康に通じ、その功により備中松山城を賜り、備中代官として松山(現・岡山県高梁市)に赴く。慶長9年(1604年)父の死後、政一はその遺領1万2千4百6十石を継いだ。慶長13年(1608年)には駿府城普請奉行となり修築の功により従五位下遠江守(とおとうみのかみ)に叙任される。以後この官位により通称・小堀遠州と呼ばれる。元和5年(1619年)、近江小室藩に移封。それまでの居宅は、本邸を伏見六地蔵、役宅を二条城に近い六角越後町(三条)と大阪天満南木幡町に持っていたが、伏見奉行就任後は、主として豊後橋(現、観月橋)北詰にあたる奉行所付置の役宅で暮らした。公儀作事(さじ)に関する主な業績としては、備中松山城の再建、名古屋城天守、後陽成院御所造営等の作業奉行をはじめ、宮中や幕府関係の作事奉行があげられる。建築家・造園家としても名を馳せた。宮中造営の業績のほかに、江戸城内や品川東海寺(徳川家の菩提寺兼別荘)、将軍上洛の際の休泊所である水口城(滋賀県水口町)、伊庭(いば)御茶屋(滋賀県能登川町)、大阪城内御茶屋などが知られている。また京都の寺では、将軍の側近者崇伝長老の住坊である南禅寺金地(こんち)院内東照宮や御祈祷殿(方丈)側の富貴の間(ま)、茶室および庭園、同寺本坊の方丈庭園など、準公儀の作事に参画しているが、彼の書状の文面から推察できる様に、彼は江戸にある幕府からの愛顧を気にしていた関係から、公儀の作事(幕府の対皇室政策)以外は公家へのいでいりは極力避けていた。彼が奉行として参画したと思われる遺構は、建築としては妙心寺麟祥院の春日のつぼね霊屋(おたまや)(慶長年間、うち溜(たま)りを移建)、氷室(ひむろ)神社拝殿(慶長年間、内裏池亭を移建)、大覚寺宸殿(慶長年間の内裏の元和期増造の際に中宮宸殿となる)、金地院東照宮、同茶室、同方丈南庭(鶴亀庭)、南禅寺本坊方丈南庭、大徳寺竜光院密庵席(みったんせき)、孤篷庵表門前の石橋、同前庭、同忘筌席露地(建築は寛政年間に焼失後、旧様式を踏襲して復元された)、仙洞御所南池庭のいで島およびその東護岸の石積み部分などである。幼年期から時折のぞかせた天才的素質を先輩たちは嘱望し、自らも精進することにより、その晩年にいたってますます冴えを見せた。なお、その選びにいったものを、後世の人が中興名物と呼ぶようになったことも首肯できる。彼の門下としては松花堂昭乗、沢庵宗彭が有名で、八条の宮智仁親王、近衛応山、木下長嘯子(ちょうしょうし)など当代一流の文化人たちとの交際が知られる。元和7年(1621年)と寛永19年(1642年)の江戸から上洛途次の歌入日記にもその文学趣味がよく現れている。晩年は茶の湯三昧に過ごし、その茶の湯は現在ではきれいさびと称されている。正保4年2月6日、伏見奉行屋敷で69歳の生涯を閉じた。遠州の茶道は遠州流・小堀遠州流として続いている。 (出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)