「子孫に美田を残さず」、が日本経済の救世主。
以前にこのブログの、「長い話」、に書いた、「ある祇園の小さな割烹屋さん」、祇園の新門前にあったアニキの割烹屋さんで修行、祇園小路の一角にカウンターだけの、11人も座れば満員になる、小さな割烹店をオープン、その間もない頃にゴルフの帰りに紹介された店で、アニキの店から独立、夫婦2人で頑張ろう、そういう意気込みのある店で、酒も旨いし、料理も旨い、酒は東尋坊の近くの古い小さなつくり酒屋さんから樽買いの酒、冷酒のいたっては余りにも飲みやすくて、ついつい飲みすぎて悪酔いする、「罪作りな酒」、料理にいたっては、当初はその月の料理のメニューをきめていて、始めてこの店を訪れた者は、大きなお皿に少しづつ盛られた刺身、その種類の多さに度肝を抜かれ、四国の高知出身のために、必ずドロメやノレソレがついていて、たっぷり生物を食べた後で、たっぷりな野菜はさまれた足摺風のかつおのたたきが出てきたり、冷たい汁物といって白魚の踊り食い、料理の合間にあわびの肝和えが出てきたり、そしてこの店の女将さんの店でのお客さんの対応もさることながら、会社へ請求書が送られて来る時にちょっとしたらブレター、来店のお礼と、月代わりには、こういう料理で次のおいでをお待ちしています、と一筆添えられていたり、振込みをすると振込みのお礼のラブレターが添えられていた、酒が旨くて、料理が旨くて、その上にこの女将さん、この店を紹介されたお客さんは、1週間以内に、店の大将と女将さんが覚えているうちに、また誰かを連れて再訪という事になる、常連さんは週に1、2度、店にきて、新しいお客さんはネズミ算的にどんどん増えていく、だからここで食事をすると、次を予約して帰るという事になる、こうして1週間先の予約がやっと取れるという状態、この店は酒と料理だけではなく、短気で口の荒い大将と話すのも動きもゆったりとした女将さんとの夫婦喧嘩も名物であった、殆どのお客さんは女将さんの見方で、大将が余りひどく女将さんを怒鳴りつけた後などは、お客さんが女将さんを慰めるためにのみに連れて行くこともしばしば、この店がオープンしてから5年間ほどは順調に行っていたのだが、店の自慢の夫婦喧嘩に少し変化が、対象が一方的に怒鳴り散らす、女将さんは言われっぱなしで俯いたまま、ここでお客さんが、「いくらなんでも大将、それは言い過ぎやデぇ」、と女将さんを庇って、チョンと言うストーリーなのだが、家では娘が2人、店を12時頃に閉めて大将は腹巻にその日の売り上げを詰め込んで、毎日朝帰り、娘2人はダンダン大きくなる、家の中では3対1で圧倒的に大将が不利、この状況で店の中での夫婦喧嘩、言われっぱなしだった女将さんが言い返すようになる、女将さんの言い分のほうが筋が通っている、こうなるとどちらかといえば口下手な大将のほうが、言い負ける、腹の虫がおさまらない大将の包丁捌きが荒くなる、お客さんは大将がいつか出刃包丁や柳歯包丁を投げつけるのでは、そんな心配をするようになる。 そして上の娘さんが高校受験を迎える頃女将さんが、店に出てこなくなるようになる、当初、大将は、「ここの店はオレの包丁で持っていて、嫁ハンが来なくなってもアルバイトで大丈夫」、と強気であったが、この店は女将さんのセールスプロモーションによるところが大きく、お客さんの中で画家さん、陶芸などの芸術家、大学教授、等々の良いお客さんから店に来なくなる、店はいつ行っても空席がある、こうなるとお客さんは店に来る時に予約の必要がなくなる、大将の材料の仕込がちぐはぐになる、店が終わってからきれいに掃除をしないで店を閉めて飲みに出る、魚の生物が売りの店で、汚くて、匂いがするのは命取りで、娘2人が高校に行きだした頃に、女将さんは娘2人を連れて家を出る、悪い時には悪い事が続くもので、棟続きの近くの店から深夜に出火、建替えはなったが、再び店をオープンする資金力はなく、長年の飲みすぎが祟って、肝臓をやられて、若死にをする事になる、女将さんはというと、祇園町のお茶屋さんの建物でスナックを経営、美しくなった2人の娘さんも手伝い、割烹店当時の良いお客さんが常連さんとなり、なかなか繁盛していると聞く、この割烹店で樽買いをしている酒の東尋坊の近くの小さなつくり酒屋さん、純米酒や吟醸酒が絞り終わって、南部から来ている杜氏さんが、一息つく2月中旬に常連のお客さんが集い、ただひたすらお酒を飲んで、粟津温泉で1泊する酒蔵見学ツアーを開催、この時にこの割烹店が来年に開店10周年で、女将さんが行きたいところへ旅行しようという事になった、女将さんのリクエストは、台北の故宮博物館で何日か好きな陶磁器を見たいという事になり、旧正月には無料開放になるために翌年の旧正月に、3泊組みと、2泊組で台北で落ち合う台北旅行へ行く事になった。 最近テレビの番組で資金の潤沢な台湾の企業が、資金力は乏しいが技術力のある日本の中小企業に合弁会社のアプローチ、台湾では株式投資が盛んで、投資家の中に一般の高齢者の人達が多くいるという事だった、これを見ていてその台北旅行の時に台湾人の老ガイド、日本語は克って日本が台湾を統治していた時代に覚えたということで、そな話し方は丁寧、いや馬鹿丁寧といえるほどで、候文で話しているようなところがあった、台北の町できれいだと思ったのはテレサ・テンのお墓のある、山の上にある墓地であった、一つ一つのお墓が大きくて、墓の横に墓地よりも広い場所に、建物が建てられており、そこにテーブルや椅子が置かれていて、ユックリと墓参りをして、その後休憩する場所が、それぞれに作ってある、お墓にお金をかけるということで、台湾では子孫に財産を残さない、また子孫は親の財産を相続するのを潔く思わない、そういう習慣が強く、親が死ぬとその財産を使い切るように葬式も派手で、立派なお墓も立てる、葬式の時に大型トラックの荷台をステージにして、歌手が歌を歌ったり、役者が芝居をしたり、中にはストリップショーまでやらかす、ような葬式もあり、出棺の時に喪主が家の前でお金を燃やしたということもあったらしい、今でも玩具の金を燃やすことはあるということだった、台湾では高齢者が株式に投資、親は子供に財産を残さない、その台北旅行の時の老ガイドの話を思い出した、日本でも高齢者の保有する金融資産は膨大である、この金融資産が利ざやを稼ぐようなセコイ投資ではなく、優秀な技術力を持ちながら、資金不足のために、会社をのばすことが出来ずに苦しんでいる中小企業を育成のための投資に向かえば、このためには、格差が少なく、教育の機会均等、充分な社会保障、誰もが将来に対して不安を感じずに生活、「日本は地球上で唯一成功した社会主義国家である」、と言わしめた、もう一度そこへ戻れば、高齢者も余計な将来の不安もなく、保有する金融資産も安心して株式の投資に向かわす事が出来る、こうすれば少々の円高でも慌てる事無く、生産の拠点を海外に移す、そんな弱気になることもなく、株安なんということは起こりえない、民主党も権力争いの時ではない、日本の将来の向かうべき方向を如何に示すか、日本人が真面目の勉強をして、真面目に仕事さえすれば、ある一定水準の生活が保証される社会、そういう社会になれば、親は葬式代を出してチャラ、こういう事が安心してできる社会が実現できれば、高齢者の保有する膨大な金融資産は相続だけに向かう事無く、別の方向に向かえば、「子孫に美田を残さず」、である、日本経済に救世主になりえる、そんな思いがする。■「今日の言葉」■ 「 苦難は必ず活路を伴っている 逃げずに向き合えば道は開ける 」 (自然社・平成22年・新生活標語より)