長岡京市のオートレース場の記憶。
今すんでいる右京区の、「西院」、今までは京都の西の方といっていたが、2年前に京北町が右京区に合併されてからは地図上では京都市の真ん中あたりといえるかもしれないが、昭和初期の地図を見てみると、千本通より西は四条通殆どがは通っているが、畑や田んぼ、竹林ばかり、西大路通より西にぽつんと小さな集落、西院村とある、明治40年生まれのオヤジ、西陣に住んでいて、子供時代は祖母から、「絶対に千本通よりは西へ、遊びに行ったりしたら、アカン」、と口うるさく言われいたらしい、実際に何となく鬱蒼としていて、怖くて立ちいれない様な場所だったらしい、この古地図を見て納得できた事があった、この西院に今でも巽町・坤町・乾町と方角の町名がある、この頃の西院の南北の中心は四条通、東西の中心は西大路通よりも西の中の橋通であったらしい、ここを中心として辰巳の方角に巽町、未申の方角に坤町、戌亥の方角に乾町が点在している事が分かった、こういう事もあって地図上ではいくら京都市中心あたりに位置するようになっても、京都の真ん中ではなく西の方なのである。 オレが通った西院小学校、学年は7クラス、1クラス50人、同じ学年が約350人、小学校全体で2、200人、右京区、中京区、下京区、3つの行政区にまたがった広い学区、オレの息子が小学校に入学の時に小学校の直ぐ西に建った205所帯のマンションに引越し、この地域にこれくらいの大きさ規模のマンションが珍しかった頃、丁度、ほぼ同じ頃にこの学区の南西の端っこに更に大きなマンションが建った、モデルルームを見学にも行ったが、こちらの方がオシャレなマンションであったが、いくらなんでも小学校が遠すぎるという理由で小学校に近いほうのマンションを購入、その遠い方のマンション、引っ越して直ぐに、土地勘がない頃に新学期、子供が多いので2班にわかれて集団登校、その2班のうちの1班が小学校に行く途中で道がわからなくなり集団で迷子、こんな事が実際に起こるほど広い学区、この広い学区でしかも小学校と中学校が全くの同一学区、学校の場所は変わるが、中学校から私立中学校に入学した生徒以外は全く同じ顔ぶれ、学年単位で考えると9年間の小・中学校の一貫教育の様でもある。 小学校の低学年の頃に良く遊んだ一人っ子のユキオ君、彼のお父さんにその昔、今の長岡京市に競馬場があり、そこが競馬に使用されなくなり、そこが一時期オートレース場になっていた事があった、後にも先にもオートレース場へ行ったのはこの時が最初で最後、物凄いエンジン音と砂埃、時折転倒や接触事故、血を流しながら引き揚げてくる、あるいは担架に乗せられて運ばれるライダー、当時の事だからバタバタと呼んで、音はでかいが余り走らないオート3輪車のレースもあった、もう50年以上前の事である、小学校の高学年になってクラスが違い、急に遊ばなくなる、しかも彼は中学校から私立の中学校へ行き、以来一度も会っていない、しかし不思議とユキオ君とオートレース場の事は覚えている、同窓会の時、中学校から私立の中学校へ行き、同窓会へ始めて出席した同窓生と隣り合わせ、話をして思い出そうとするがどうしても思い出せない、何となくかみ合わない会話、「まあ。まあ、まァ」、お互いにビールを注ぎあい、昔話はかみ合わないが、今の話しは上手くかみ合う、そしてお開きの前ごろになって、「ユキオ君の事、覚えてる」、と意外な人の事を、すると彼は中学校が同じ学校で、高校も同じ、今も付き合いがあり時折呑みに行くとの事、今日はアイツと誘い合わせて来る予定だったが、アイツが都合が悪くなって来られなかった。 あいつは、「先生や他の人とは別段会いたくないが、お前の顔が見たい」、といってたよ、「そうかァ、ユキオ君かオレも、一度あいつの顔が見みたいよ」、と言ってその時は別れたが、次の同窓会と思っていたが、還暦同窓会の後、随分と間が開いている、会ったら、一番に、「お前のお父さんに連れて行ってもらった、長岡京市のオートレース場の事、覚えてる?」、と聞くつもり。 ■「今日の言葉」■ 「 人への批判を自分に向ければ 大差ない自分の実態が見えてくる 」 (自然社・平成19年・新生活標語より)