「子供の日」くらいは休みたいなんて、今思えば随分と贅沢な話!。
ゴールデンウィークの間、スーッと仕事、もうこんなことは20年ぶりくらい、しかしそれ以前はというと、夏物のクレープ肌着の製造が主力商品だった頃は、問屋さんに納めた製品が4月中旬頃に百貨店の売り場に並び始め、天候に恵まれると、すぐに売れ始め、意地の悪いことに生産が遅れて気になっている商品に限って売れ行きが順調、このゴールデンウィークの期間が製造の遅れを取り戻すチャンス、連休にも拘らず休日出勤、子供が小さかった頃には、せめて5月5日のこどもの日ぐらい休めればよかったのになァ~。 ただ、この当時扱っていたクレープ肌着、クーラーが今ほど普及していなかった頃、梅雨から夏に掛けて、高温多湿、暑さしのぎには、団扇、扇子、扇風機、打ち水、床机の夕涼み、行水、蚊帳、かき氷、氷柱、怪談話、浴衣、そして肌着は涼しい、シャリ感のあるクレープ肌着というのが当時の定番。 メリヤス肌着に比べて随分涼しく、夏場の高級肌気としての人気商品だったこともあった、それも昭和40年(1965年)、紳士・婦人・子供の肌着の年間生産数8,000万枚をピークとして年々減少、たまたま昭和45年(1970年)の大阪万国博覧会のときに一時的に数量が回復するが、それ以降ファッションの変化でまず婦人・子供の製品が殆どなくなり、紳士ものも住環境、オフイスの環境のクーラーやエアコンの普及による変化、メリヤス肌着に比べて伸縮性のなさが、特にヤングの年代層に嫌われ、中年層やシニアにも嫌われだし、また中国をはじめとする海外の安いメリヤス製品に比べ、国内で生産していたクレープ肌着の割高感が数量の減少になお一層の拍車をかけ、1995年頃には年間生産数が1,500万枚を割り込み、クレープ肌着発祥の地とも言うべき京都でも、これを扱う問屋・メーカー・工場を合わせると、20数社あったが、この頃には実にわずか3,4社のみに。 そしてこれだけ数が減少しているにもかかわらず、商社がクレープの生地と製品の生産の拠点を中国へ、2000年に我が社が製造を止めた後、京都でクレープ製品を扱っているのは、中国で生産するメーカーが1社、生産拠点を九州の国東に持つ工場が1社のみという現状、クレープの生機(きばた)を晒してクレープの生地に仕上げる、晒しの技術を開発した伏見晒も今はなく、京都ではたった1枚のクレープ肌着も製造されることが永久になくなってしまった。 かって、せめて5月5日の子供の日くらいは休みたいもんだと、ぼやいてからほんの僅かな間に、皮肉なことに否が応でも休まなくてはならないほど、業界全体の受注量の激減。■クレープ肌着通常の織物に比べて、横糸に強撚糸を使用、織り上げた生機を晒す時に、強撚糸の特性上、撚り回数が多い分だけ横の方向に縮もうとする力が働く、そして自然に波打って、皺がいった状態になる、それを我々は,「しぼが立つ」といっている、その不規則な皺を規則正しく綺麗にする為に型押しをかける、綺麗に畝のようになっているのを「ピッケ」、波立ったようになっているのを「なみしぼ」(楊柳)と呼んでいる、ちなみに織り上げた時の生機幅が160cm、晒し加工する事にり横に縮んで生地として出来上がる時には110cm幅にまで縮んで仕上がる、ここにこの生地の特徴があって、丈夫でシャリ感があって、サラットしていて、生地の凹凸がラジエイターのような働きをして、肌触りが涼しい、高温多湿の日本の夏にはうってつけの素材であった、克ってはではあるが。