1995年の「思い違い」の源…
小説『伝説巨神イデオン』第2巻「胎動編」の中にあったのだな、ギジェ・ザラルの内面の複雑性を描いた記述が…。シェフィールドにいた、15年前の1995(平成7)年、この小説は実家に置きっぱなしだったわけだが、なまじっかこの記述の断片的な記憶が頭の片隅にあった。そして、それを今になって改めて読み直し、別の意味を見出しそうになる自分――。「『戦況は?』 『分りません。私とギジェ様はカプセルで待機するようにという命令です』 振りむきもせずに言うそのマヤヤの肩が、くりくりと力強く動くのを知って、この女(こ)はいい女(こ)だろうな、とギジェは思う。 カララのように上流にあがりすぎた女性の持つ硬い感性ではなく、もう少しやわらかな女性の肌合いといったものをマヤヤなら教えてくれるのではないだろうかと想像するのである。 イデ捜索隊以後の変転する体験は、ギジェに日常的な感覚を忘れさせていた。マヤヤの肩はそれを思い出させてくれたのである。 しかし、とギジェは思いつくことがある。この日常的な感覚の麻痺は、イデ捜索隊以後のことではなくて、それ以前からあったことではなかったのか? と。 たとえば、おちめの武士階級の代名詞みたいに考えていたザラル家の再興を思いついた時から、ギジェの日常の中に、日常的な思考というものは全くなかったように思えた。 それに、カララがギジェの婚約者であるという、人の黙認の仕方にも、奇妙な作為があったように思える。 もともとムリなのだ。それを当たり前のように、なりゆきだ、としたギジェの経歴はすでに日常感覚を麻痺させるものがあったように思える。 ギジェの強固な意志の成し得た技だという思いこみこそ偏見なのではないのか? むしろ、ギジェにとってはマヤヤ・ルラのような女性こそ似合いであったはずなのである。が、すでに事態は急速に危機へ向かってなだれこんでいるのである。 ギジェの中に、日常的な暖かさを求める欲求が芽生えようとも、今であっては弱気のあらわれとしか受け取られまい。」(36-37頁)かなりの危機的状況ではある。