『社会に不人情まん延』。。。
地元紙の論考07欄にこんなタイトルが載っていた。副題に『自費出版に思う』とある。そのまま引用させていただきます。 『自費出版、あるいは共同出版で有名な出版社が、4人の著者から訴えられているという。週刊誌やインターネットでは、前からこの会社に対する批判がとびかっていたが、ついにその訴訟が大きく報じられることになった。 ▽一片の通知 「全国の書店に本が並ぶ」と誘われ、出版契約に応じたのに、その著書が書店にまったく並ばない。払わされた費用もやたらと高い。そうした点が問題視されているが、この契約にまつわる事実経過と、その当否とについては、今後、裁判の過程で明らかにされることだろう。 しかしこの報道に接して思い出したのは、法哲学者の長尾龍一教授(日本大学)が、二年前に著書「ゲルゼン研究2」(信山社)の「あとがき」で、慷慨(こうがい)をこめて語っていたできごとである。 長尾教授は、篤実な経済史家であった夫人を亡くしたのち、ある出版社に一千万円もの費用を払って、その遺作集と追悼文集とを刊行した。しかし刊行の1年後に出版社から、わずか「一片の通知」で、残部を廃棄するという通告があり、絶版に付されてしまったという。 一冊の本を製作するのに、はたしてどのくらいの金額を要するのかは、素人には判断のつかないことがらである。まして、版元から取次をへて書店に本が並ぶまでの間に、いかなる過程があって、その段階でどれほど費用がかさむのかという点になると、これはもう、想像力の限界をこえてしまう。 ▽顔をあわせず したがって、契約は不明瞭(ふめいりょう)なものになりがちであるし、出版社がわざと説明を省いて不当な利益をあげようとしたのではないか、と疑われる事態も起こるのだろう。 だがそういう問題の前に、「一片の通知」のみで絶版を一方的に宣告する不人情さに、大きく引っかかるものを感じる。まったくの憶測であるが、こんど訴えられた出版社にも、これと似た態度があって、訴訟にいたってしまう原因の一つになったのではないか。 どうも最近このように金銭の損害をひきおこすことがらでなくとも、同じような問題を、出版社やマスメディアの担当者に感じることがある。 いきなり電子メールか手紙で、執筆を依頼してきて、こちらが締め切りに遅れないかぎり、担当者の側から連絡をしてくることはなく、雑誌や本が刊行に至っても、ついに1回も顔をあわせない。そういう手あいがふえていると聞いてはいたが、自分でも経験するようになった。 もちろん、原稿と稿料のやりとりにすぎないと純粋にわりきり、とにかく迅速に活字化するという仕事のやり方もあっていい。大部の辞典や週刊誌の場合に、すべての執筆者と顔をつきあわせて編集をすすめるのは無理だろう。 ▽物腰と手順 だが、そういう事情ではないのなら、担当者とじかに会い、その本や雑誌の編集方針を聞き、自分もそれに意見を言いながら、仕事をすすめたい。これが、強度の人見知りでないかぎり、多くの執筆者の気もちではないか。 原稿と活字のやりとりではあっても、人と人との交渉であることを、どこかで確認したいのである。だが、そうした思いとは逆に、この不人情の傾向が、出版やマスメディアにかぎらず、社会の多くのところでまん延しているように思える。 しかし先日、京都のある小出版社から、直接注文で本をとりよせたところ、届いた現物にそえられたチラシに、ていねいなお礼の文句が、手書きでそえられていた。その会社の関係者でも執筆者でもないし、こちらの名前を知っていた気配はない。 たしかに自費出版の史著者と交渉する場合と、本を買った客に連絡する場合とでは、事情が異なるだろうし、出版社の規模が大きければ、細やかな対応はしにくくなる。 だが、こういう配慮が一つあるだけで、品物と代金の交渉も、人間味を帯びた温かいものに変わってゆく。見知らぬ他人と仕事をするときには、いかなる物腰と手順が求められるのか、それをきちんと考えることの必要性を、痛感するのである。(苅部直=東大教授)』 “顔が見える”という機会が段々少なくなりつつあるのは、銀行のATMとかが普及し始めてからが顕著になった気がする。目と目で挨拶を交わすことで人情が伝わったものだ。でも、世代によっては、それがまるで“無駄”とも思えるらしい。要件だけ伝わればそれでいいじゃん!それはそうなんだけど。。。