祇園祭の懸装品
7月11日に祇園祭の菊水鉾を建てるのを見ました。この時に写してきた写真をアルバム祇園祭としてまとめたのですが、我が(笑)菊水鉾の雄姿を、という訳でさらに17日の祇園祭のクライマックスである山鉾巡行を10年ぶりくらいに見に行ったのです。ようやくアルバムにこの日の写真を加えることが出来ました。 この作業が遅くなったのは自分の仕事上での忙しさということもあるのですが、実はもうひとつの別な事情が作業を遅らせたのです。 山鉾の様々な懸装品はたいへん名高い貴重な染織品でもあるわけで、これらを見ることもひとつの楽しみとして行ったのですが、そのうちに素敵な部分をいくらかは見ることが出来るとしても、全体に絢爛豪華で立派ものではあってもほんとうに美しいものは多くはなく、それどころか近代になって作られたものなどはむしろ見るに堪えないようなものも少なくないのです。 せっかくの祭にこう言っては申し訳ないような気もするのですが、木と縄で作られた質実な美しさの鉾の骨格を見た目には何ともこれらの飾り付けがみすぼらしく見えるのは皮肉なことです。西陣織や清水焼や、そういう京都の伝統文化は研ぎ澄まされた技術レベルを身に付けた反面いかにもこの土地らしい趣味的なものに落ち、美しさとは縁のないものになりがちなのですが山鉾の懸装品にもやはりこれらの弊害が見受けられるように思いました。 山鉾巡行にはお囃子があり、大勢が力を合わせてあの大きな鉾が動くという驚くべきエネルギーがあり、それはそれでたいへん満足もしたのですが、ただ懸装品に目を向けると満足の行かない何かが残ります。祭衆の浴衣を含めもっと美しくあっていいはずだという気がしてなりません。 いかにも自分好みの琉球の絣や丹波布や有松絞だけではこのお祭りの懸装品としては成り立たないことはわかってはいるのですが、現代の京都の精いっぱいがこのくらいであるというのは正直なところいささか物足りないのも事実です。 お口直しという言葉がありますが、なんだか欲求不満のようになって帰りにとあるところに使い込まれた藍染めの麻の半襦袢のコレクションを見に行ったのです。これでようやく目がみたされた心地がした、というのは率直な実感です。・アルバム『祇園祭 京都』・京都新聞の祇園祭サイト