交差点にて
最近得体のしれないところからよく電話がかかってくる。しかも市外局番は明らかに東京のものだ。誰だろう?というか何の用なんだろう?一応東京には行ったことがあるが、電話をかけてくるような関係を築いた覚えはない。今度かかってきたらとってみよう。なんて心構えをしていると決まってかかってこない。無意識下の偶然はそれを意識した瞬間から頻度が著しく低下する。まるで私という存在に似ている。必要とされたいと思う時には必要とされないのに必要とされたいとそんなに思っていない時に必要とされる。少し面白い考察だ、今後も考えていこうと思った(笑)そんなことを考えながら今日をまったりと過ごしていた。休日が平日、そんなことは最早当たり前になっていた。でも未だにその平日休日を上手く活用する術が見つからない。欲しかった本を買ったのでそれを読もうとしたのだが、体が疲れてしまっていて結局何も出来なかった。次の仕事に向けての英気を養うくらいが関の山だ。これじゃあまるで働く為に生きているようなものだ。そんな人生は面白くない。今度の休日はもっと有効に過ごそう。自分が死んでいくだけの休みなんてまっぴらだからだ。そんな中でもちょっとだけ出かけた。その時に少し面白いことを思いついた。今日はそのことについて書いてみようと思う。テーマは交差点についてだ。例えば小さな交差点に着いたとする。左側から右側への一方通行で、今左側から車が一台来ているとする。通行人は自分以外にいない、そしてその交差点には信号がついていないとする。この状況で貴方ならどうしますか?まぁ選択肢としては簡単だろう。要するに、車を先に行かせるか自分が先に行くかのどちらかだ。しかしこのタイミングは非常にシビアだと言える。何故ならば自分が行こうとして進んだ瞬間に車が発進するかもしれないからだ。それを思うと、危険性の観点から車がどう動くのかを観察していく必要がある。大抵の人は車の運転手を見ることだろう、私も実際にそうした。しかしそこに問題があるように思える。まずは歩行者側に立って考察してみよう。歩行者としては車がどう動くのかの意志を汲み取る為に車の運転手を見る。その行為は前述した通り「車の意志を見る」という行為であり、決して「早く行って欲しい」という観点では見ていないことだろう。他意のない視線だと言える。ぐずぐずしていると目的地に着く時間も遅くなってしまうし、急いでいるようなシチュエーションでは余計に車の動向を見るという行為は必然性を持つことになるだろう。歩行者側としては特に意味もなく合理性を持って車の運転手を見るということになる。この行為は間違ってはいないはずだ。次に車側から見ると、歩行者がきっとこっちを見ているかどうかというところに考えが行き着くのは自明だ。自分勝手に発進したりすると危ないし、状況から鑑みても同時発進で怪我をさせてしまうのは自分だ。対歩行者との交通ルールにおいてどのような状況においても人身事故は車の責任が9割を占める。そのことを念頭においた上で行動すると、明らかに歩行者の確認をとった上での発進が望ましい。となると、当然歩行者がこっちを見てくるのを期待するのだが、ここでその視線がどのような意味を込めての視線なのかということが重要になってくる。歩行者の視線に「早く行けよ」という意味を込めていると感じたら、車は発進を余儀なくされる。しかし歩行者側から車側へと「先に行ってくださいね」という主張をすることがないように、全ての決定権はほぼ車側にあるということだ。これは私だけなのかもしれないが、どうも上記のような状況に相対した場合、歩行者から私に向けられる視線には「行くな」という意味が込められているような気がする。日常常に車に乗っている人ならわかるかもしれない、私も実家暮らしだった時にはほとんどの場所へ車で行っていたのでその気持ちはわかる。よって私が思うのは、車側にとって歩行者に見られるという行為はある種のプレッシャーになるということだ。なんだか急かされているような気分になってしまう。どちらにも効率的な進み方というのは存在しないものなのだろうか?上記状況からの疑問は以上だが、それはあくまで歩行者1に対して車1の状況に限定される。もしも車の方が多かったなら、多くの車を待たせるという行為の合理性はないので車を先に行かせる必要がある。逆に車が1台で歩行者が多数だった場合には、車側としても自発的に歩行者に譲る姿勢を見せることだろう。車1に対して歩行者1という状況は非常にナイーブな問題だと思う。これに加えて、地域性というものも関係してくるだろう。例えば東京と京都では、上記状況における進行性にも変化が見られることだろう。おそらく京都では歩行者が優先される機会が多く、東京はその逆になるだろう。それは京都の方がドライバが歩行者に優しいとかそういう意味ではなく、ただ単に歩行者が発生するケース・細い路地での行き違いのケースが多いからだ。そう考えると、多くの地域の人が上記シチュエーションでどのような行動をとるのが合理的かを意見することは面白いように思える。是非とも統計をとってみたいものだ。久しぶりにまともな構成で文章が綴れたような気がする。最近は文章に乱れが生じていたので、ここら辺でまともな構成が出来たことは重要だと思える。どうも論文から離れた生活をしていたのが問題だろう。私も馬鹿になったということだろうか(苦笑)