無邪気
コーヒー…出来ればブラックを飲んでからすぐに昼寝をすると30分程度で目が覚めるらしい。よく眠くなったらコーヒー等に含まれているカフェインを摂取すれば眠気が覚めるという話を聞く。成分的な話なので嘘はないだろうが、ここ数年は眠い時にカフェインを摂取して眠気が覚めた覚えがない。恐らく私のようなヘヴィなカフェイン摂取者にはある程度のカフェイン程度では効き目がないのだろう。1日に間違いなく2杯以上はブラックのコーヒー(しかも濃い目)を飲む私にはもうすっかりカフェインの抗体が出来ているということだろうか?しかしカフェインに対して抗体が出来るという話は聞いたことがない。本当なのだろうか?一度調べてみる価値はあるかもしれない。さて、本題へ。社交性という言葉がある。社会で上手く生きていく性質、人と人との間の関係を円滑にまわす性質、そのような意味だ。学校や仕事場ではこの社交性という感覚は非常に大切だ。学校ならまだ気に入った友達とばかりつるんでいても問題はない。能率と人間関係には学業の面だけでなら関係性は脆弱だからだ。しかし仕事となると話は別だ。それで賃金を貰うわけだから、多少苦手な人がいたとしてもそこは我慢しなければならない。それは当然だ。どのような恵まれた職場であっても、必ず1人くらいはそりの合わない人はいるものだ。それで仕事を辞めていく人もいるくらい重要なファクタであると言えるだろう。それだけに社交性の高さはある程度は求められる。しかしまぁこういうことは生まれつきのキャパシティというものがある。苦手な人がいるのも理解出来る。私はと言えば、決定的に欠落しているわけではないものの、それでも異常に突出して秀でているわけではないと思っている。所謂普通だ。なので今までの人生でも苦手と思われる人とでもそれなりに上手くやってこれた。それが凄いというつもりはない。あくまで普通のことだからだ。しかし社交性は時として在らぬ誤解を生むことがある。それは気の無い人に気を持たせてしまうことだ。例えばちょっと苦手としている人から遊びのお誘いがあった場合、何とか断ろうと思い、今後の人間関係を円滑にする為に断りながらも次の機会にして欲しい旨を伝えるという方法がある。用事があったり特に乗り気ではない時にこの手法はしばしば用いられるが、これはあくまで相手のことを「ちょっと苦手な人」と認識している場合に限ることになる。つまりは、故意に避けている結果だ。しかし世の中にはこの関係を壊したくない、嫌われたくないと思う手法を天然でやっている人がいる。今回はそんな話だ。いつ誘っても遊びに行ってくれない人がいるとしよう。何度誘っても断られるということを繰り返しているうちに次第に自分は嫌われているのではないかという疑心暗鬼に囚われることになる。一緒に遊びに行く程ではないが、嫌われるのは避けたい、そんな現状維持の気持ちが表れている限りは遊びに行くのを断る時も何かしらの理由が存在する。気を持たせておきながらも、絶対に相手に歩み寄ったりはしない。私はそんな人が嫌いだ。遊びに行くのが嫌なら嫌と言えばいい。気持ちははっきり伝えるのが最も最良だ。それが自分の為であり、相手の為でもある。可能性のないものを追わせ続けるのはただの拷問に過ぎない。目の前に絶対食べることの出来ない人参をぶらさげられて走り続ける馬のようなものだ。そしてその姿は周りからは揶揄の対象となる。全くもって惨めだ。しかもそれを無邪気に行っている人がいるということ、私はそこに恐怖すら覚える。私はそんな経験をもう両手両足の指の数では足りないくらいされてきた。だからこそ思う、気持ちははっきり伝えるべきだと。思っていることが勝手に相手に伝わるなんていうのは幻想だ。それははっきりと気持ちを伝えることからの逃避に過ぎない。生殺しにされている様を眺めているなんて決していい趣味だとは言えない。自分がされて嫌だからこそ私はそのようなことを相手には絶対にしない。はっきりと白黒つけるようにしている。生殺しで馬鹿にされることを繰り返す度にその気持ちは強いものになる。こういうことを天然でやってのける人を見るのが非常に不愉快だ。自分という存在が注目されていると勘違いすること、人気を失いたくないあまりにいい顔をし続けること、そうすることで仲良くしたい人と同等数の人間を裏切っているということに気づくには…だいぶ時間が掛かるのかもしれない。何故なら…周りには不幸を糧にした友情が高く積みあがっているのだから。