自覚の問題
花粉症かと思っていたらただの風邪だった(笑)なかなかに馬鹿馬鹿しい勘違いだったと言える。以前のブログに花粉症に罹ってしまったかもしれないというようなことと、その後風邪を引いてしまったかもしれないというようなことを書いたのだが、風邪がすっかりよくなった今となっては花粉症の症状が全く出ていないことに気づいた。きっと何かの勘違いだったのだろうと今となっては思うのだが、それにしても布団を外に干した時に激しいくしゃみと鼻水に襲われたあの時のことはなんだったのだろうと不思議に思える。短期的に花粉症が治ったという事例は今のところ聞いたことがないし、私がその珍しい症例だとも思えない。まぁそれにしても国民病たる花粉症が影を潜めたのだ、これは喜ぶべきところだろう♪さて、本題へ。自覚するということはとても大切なことだ。人は往々にして他者に対する評価は明確に出来ても自分に対する客観的な評価というものは出来にくいものだ。「もしも自分と同じ人間がもう一人いて、その人と自分が知り合いだったら…」そのように仮定して自分という人間が外界に於いてどのような存在であるのかを認識するということは、コミュニケーションが重要ファクタである現代にとっては必要な考え方の1つだ。しかしこれはとても難しいことだ。やはり自分という人間は己が判断で生きている。考えてとった行動が周りに対して何らかの波紋を呼んでいるとしたら、それは認めたくないことだということはよくわかる。正しいことは認められても正しくないかもしれないことを認められないのは仕方ないことかもしれない。だからこそ自覚するということは大切だ。よく空気が読めない人というのはいる。その人が何故空気が読めないのかと言うと、人に対して思ったことをそのまま言ってしまうだとか不適切な空気を流してしまうだとかいうことが原因だと考えられる。しかしその根本原因というのは、その人の思考が大衆向けではなかったということではなく「自分が空気読めないかもしれない」という可能性を考えていないからだ。誰にも好かれる人がいないように、他者とのコミュニケーションに於いては必ず好き嫌いがわかれる。等身大の自分と周りの環境を比較することも大切なことなのだ。同様に仕事が出来ない人というのも同じ理由になる。自分では一生懸命に仕事をしているつもりでも、周りと自分との違いを認識しない限りは「自分のペースで仕事をする=マイペース≒仕事が出来ない」という図式が出来てしまう。それは自分の仕事との接し方について疑問を持たないからだ。日々最善の方向を模索している人にとっては仕事が出来ないということはありえない。犯罪者然り、自己中心的な人然り、友達の少ない人然りだ。現代が特に他者との共存を拒絶した世界ならこのようなことを考える意味もないだろう。自分本位に生きていればいいのだから。自分本位に生きることは簡単なことであるし、1番自然で綺麗な生き方だと思われる。しかしそうもいかないのが現代だ。自分とは違う他者の方が多くいる世界だからこそ余計に比較・検証をもってして自分の在り方を確立していく必要はあるだろう。自分本位に好きに生きていてそれでも周りに認められたらそれは儲けものだが「あの人は変人だ」という烙印を押されてから気づいたのでは全てが遅すぎる。私は…きっと変人の域だろう(笑)自転車に乗ろうとして思いっきりペダルを漕ごうとして最初の一歩を踏み外してフレームに足を強打する私はきっと普通ではないはずなのだから(笑)