『インサイドヘッド』 みてきました。
先日、『インサイドヘッド』を見てきました。こういう切り口の内容が映画になって、一般的な共通認識になって行くのは、とてもうれしいことです。それぞれの人の中で、またひとつ、新しい神話の波が生まれるのかなぁと、と、わくわくしました。最近のディズニー映画は、最先端の神話性に触れているものが多くて、すごいなぁと思います。そこにまで触れると、映画とか大ブレークしたりするみたいです。わたしたちの、集合無意識の「芽」が感じていることを、はっきりと形にして、代弁することに、なるからなのでしょうね、きっと。最近の映画では、本編の前に、ミニな映画がセットになっているのが増えているとのことで、『インサイドヘッド』も、そうでした。この前座的なミニ映画も、神話性をど真ん中でついている感じで、わたし的には、とても興味深かったです。少し前から、FBのほうでは、希望すると一年前・二年前とかの「今日」、自分がアップした記事が、見られるようになりました。トランシットの太陽の動きの中で、自分が繰り返しているパターンを知るのに、これはとてもおもしろいです。そのFBのおかげで、思い出すことができたのですが。2012年の、トランシットの太陽が獅子座にイングレスした同じころ、私が書いた文章が、このあたりのことを書こうとしているので、この後アップしてみたいと思います。もし良かったら、読んでみてくださいね。☆フラダンスに、感動しました!思い返してみたら、わたしはフラダンスを、間近に見たことは、今まで一度もなかったみたいです。その、フラダンスを初めて見たのは、100歳さんの入居施設の、納涼祭で、でした。先週の土曜日のことです。正直、感動というより、感激とか、震撼したとか、そのくらいの衝撃を感じました。な、なにこれ!今まで、体験したこと、無い!という、感じでした。ダンサーの人たちも、ボランティアの、おばさんダンサー(ほぼ、私と同年齢か、少し上くらいの年齢の)だったし、ダンサーの人たちが踊っている後ろ側は、入居施設のお隣の建物の背面の、さびたトタン張りという、シチュエーションだったけど。そんなものは、別に立派であることが、大事なんじゃあないんだな、やっぱし。フラの踊りからは、エーテル体が、さざ波のように、やさしくやさしく繰り返し放出されていて、私はそのあまりの自然体の優しさに、思わず涙ぐんでしまったりも、したくらいです。あと、あのほほえみが、良いですね。やさしく微笑まれると、とても癒されます。それはとても、あたりまえのことなのかも知れないけれど、そのあたりまえのことが、今の世の中からは、(と、大げさな解釈をしないとしたら、少なくともわたしの、日々の暮らしからは、)消え失せてからしばらく経つことに、逆に気づかせてもらった感じです。と、ここに書いたこととかは、ただ単に、フラダンスを見ました、ということにとどまらずに、実は深い深いところでは、見えない水脈のように繋がっている神話的な流れがあって、じゃあ、その神話的水脈の流れの、おおもとはどこかな?とたどると、冥王星が降格して、エリスの次に、マケマケが登場したあたりにまで、繋がっていたりもします。その、神話的水脈の流れに沿って、ずいぶんと不思議でうれしいこととかが、いくつか起きていたりも、しているのだね。それでその、フラダンスを生まれて初めて、間近に見て受けたものは、わたしの中では、セラピー・キャンドルづくりの中に見てきたものと、相通じるものなのです。それはおそらく、現代人がほぼ喪失しかけている、もしくは、眠らせたままになっていたりもする、人間としての特質で、あるのかも知れないと思っていたりもします。 人間存在と言った時の、その中心点に、太陽的なものがあるとして。 現代の日本人であるわたしたちも、欧米的太陽の開発の時代的洗礼を受けて、成長してきたわけだけど。もっと、そのはるかいにしえの人々たちは、中心点にある太陽的なもののエネルギーの、放出の仕方が、今とは違っていたのではないか、そのような思いが、ますます強くなってきたのは、3.11のあとから、です。 良く、かつての人たちは、太陽を使わなかった、というようなことが言われたりもしたけれど、そうではなくて、発動のさせ方が、少し前までの欧米的現代とは、違っていたのではないか、そういう思いがあったので、フラダンスを見た時に、驚いたのです。そこには、そのいにしえのと思っていた、太陽の発動が、存在していたから。もっと個人的お話しに、落とし込んでお話しするとすると、わたしの場合はネイタルに、太陽と火星のコンジャンクションを持っているので、その太陽の使い方が過激になる傾向があって。それは、ほぼ本人的には無自覚に行為されていて、自覚なかったのですが。このネイタル天体に、しばらくの間、射手座終わりから山羊座はじめの、トランシットの冥王星がスクエアーをかけていて、その時に人生上ほぼ初めて、太陽火星が、今までのように使えない体験が、訪れました。ある意味、太陽火星が喪失されて、遠い星空だけ見える、夜が訪れた感じ。 この時期の体験の中で、古い今までの太陽が一度死んで、 遠い星ぼしが教えてくれたような、はるか昔の太陽に通じる、 今までに無い新しい太陽が、再生しているような、 そんなプロセスの体験が数年間、 わたしの中では、 いまだに続いています。 古いものと、新しいものは まだまだ渦を巻いていて 整理された流れには まだならずに居ます。 これからはじまる神話研究会は、だから このいにしえの太陽を 遠い星ぼしに 尋ねる作業なのだと 思います。