コートジボワール情勢(1)ー南アによる調停の失敗ー
雷雨で目が覚めた。今年は例年に比べて雨量が格段に多い。ダカール市内でも排水システムが存在せず、水没している地区もあるようだ。コレラ等の疫病の流行が心配だ。 今日は悲しいニュースをお伝えしなければならない。コートジボワールの和平交渉の仲介役としてアフリカ連合(AU)の名代として、調停工作を進めてきた南アがその役を降りることを発表したのだ。 コートジボワールでは2002年9月にクーデター未遂事件が起こり、それ以来国が二つに分割された状況が続いている。 コートジボワールはカカオやコーヒーの生産で富を築き、70年代後半から80年代前半にかけて、「コートジボワールの奇跡」と呼ばれる経済成長を演出した。実際、当時の一人あたりGDPは2000ドルを超えていた(現在は3分の一程度まで凋落している)。 経済的首都であるアビジャンを訪れた人は、高層ビルが立ち並ぶ街の外見上の繁栄振りに驚く。しかし、80年前半をピークにカカオ等の国際市況の低迷を受けて、経済は下り坂を転がり落ちている。 カリスマ的な指導力によって多様なエスニックグループを束ねてきた建国の父、ウフェ・ボワニ大統領が93年に死去して以降、エスニックグループ間の勢力争い等が表面化するようになり、詳細は省略するが、前述の2002年以降は国が南北に断絶した状況となった。 この歴史を理解するためには、旧宗主国のフランスとの関係が一つのキーワードとなるが、2002年の事件当初積極的に和平プロセスに干渉したフランスを、コートジボワールの真の独立のために排除する動きが徐々に顕著になり、昨年11月にはそれが大規模な排仏運動につながり、数千人のフランス人が国外脱出を余儀なくされることとなった。 その後、困難な調停役をあえて買って出たのが南アであった。コートジボワール政府そして反乱軍側の主張に耳を傾け、10月30日の大統領選挙実施に向けて、調停を行ってきただけに、今回の突然の舞台からの「退場」宣言は、「さじを投げた」と受け止めることもできる。 コートジボワールの危機を一度で説明することは難しい。これから何回かにわたって、この問題の根本について解説をしたいと思う。