301 天よ露をしたたらせ
【解説】 待降節の入祭の歌として歌われるのが、301「天よ露をしたたらせ」です。グレゴリオ聖歌でも "Rorate Caeli "として有名な曲です。日本語の歌詞は、『教会の祈り』待降節木曜日「朝の祈り」の「神のことば」および「答唱」からとられています。 前半ではイザヤ45章の8節が歌われます。「天」と「地」は、イザヤ66:1で「天はわたしの玉座、地は私の足台」と言われ、そちらも、神の住まいの象徴とされています。「雲」は出エジプト記でしばしば、神の臨在のしるしとして登場します(13:21,16:10,24:15,40:34など)。「正義」と言うことばを、『聖書 新共同訳』は、「恵み」と訳しています。どちらも語源は同じで、「正義」は「神の恵み」ということができるでしょう。この45章の8節は「わたしが主、創造する」と言うことばで結ばれています。この「創造する」という語=ヘブライ語の「バラー」と言うことばは、必ず「神/主」が主語となっており、神ご自身がこのことを創造されることが言われているのです。 後半の、詩編72は、「神の祝福された王国の平和」を歌う詩編です。この「主が選ばれる」(申命記17:15)王は、「神なる主を畏れることを学び、律法のすべてのことばとこれらの掟を忠実に守り」(同17:19)、また、「同胞を見下して高ぶることなく」(同17:20)、「正しく民を治め、正義をもって貧しい人を守り」(詩編72:2)、「貧しく不幸な人をあわれみ、苦しむ人に救いをもたらす」(同72:13)ものです。「王」とはまさに、神の救いを民の中にもたらす神の代理者であり、その王国の「平和」はまことの「平和」=神の支配が満ち満ちたものとなるのです。 調号は2♯のD-Dur(ニ長調)で、一見すると式次第と無関係のように思えますが、待降節には同じ調号の栄光の賛歌を歌いません。待降節は悲しみの節制ではなく、主の到来を、いわば、わくわくしながら待ち望む季節です。そこで、主の栄光をたたえる栄光の賛歌と同じ調号を用いて、喜び待ち望む心を表しているのです。 冒頭、4小節、同義的並行法の部分は、後ろの2小節が、最初の2小節より、旋律は、ほぼ2度低く歌われます。これは、後半(Fineの後)の4小節も同様です。5小節目では、「開いて」を象徴するように、旋律も一気に上昇し、最高音D(レ)に達します。「救い主を生み」では、自然に rit. するように、旋律に臨時記号(♯)が用いられ、最後は穏やかに終止します。 後半、旋律、和音ともに、前半とほぼ同様に繰り返されます。最高音に達する「王は来る」は、原文では1回ですが、切迫した主の再臨を表すために、畳み掛けるように繰り返されます。最後は、穏やかに終わり、D.C.となります。【祈りの注意】 速度の指定は、四分音符=56くらいですから、比較的ゆっくり、と言うより、悠久の大河が流れるように、ゆったりとレガートで歌います。決して急いだり、マーチのようにならないようにしましょう。 冒頭は、mp とmf の中間くらいの音の強さで歌い始めましょう。3・4小節目は、1・2小節よりほぼ2度低く繰り返されますので、やや、強さを弱めてはどうでしょうか。「大地よ開いて」からは、旋律も一気に上昇し、大地が大きく開くように(実際にはそういうことはありませんが)、堂々と歌いましょう。「正義の花」からは、再び静かになり、神の恵みである「正義の花」がやさしく静かに開くように歌い、rit. して終わらせましょう。二回目 Fine. のときは、特にていねいにしてください。 後半の冒頭は、-ここで、必ず基本のテンポに戻すことも忘れないでください-「牧場に露」が、「地を潤す雨」が、人知れず天から降りてくるように、静かに歌います。主キリストも、そのように、人知れずこの世にお生まれになったのです。「王は来る」は、二回畳み掛け、旋律も上昇していますから、「大地よ開いて」と同じように、堂々と歌います。「民に平和を」からは、「正義の花を」と同じように、静かに、rit. dim. しておさめ、また、インテンポで冒頭に戻ります。全体的に静かに歌われますが、それがことばを生かし、救い主の到来を待ち望むこころを整えます。さらに加えれば、司祭と奉仕者の入堂の行列と、歌のテンポが合えば、より豊かな表現となると思います。