「くびき」
来なさい重荷を負うもの 「NCC練習日記」8月25日にも書いたのですが、「来なさい重荷を負うもの」(『合本以後』)の中に、「くびき」ということばが二回出てきます。2番の「受けなさいわたしのくびきを」と、3番の「わたしのくびきは負いやすく」の二箇所です。ちなみに、この聖歌は、マタイ福音書11章28-30節のキリストのことばによっています。キリスト新聞社発行の『新共同訳聖書辞典』によれば、「鋤や車を引かせるために家畜の首につけた道具で・・・・」同じ種類の二頭の動物(たとえば牛やロバ)をつないで引かせたものです。 そこで考えたのは、キリストは「わたしのくびきは負いやすく」と仰せになっていますから、くびきの一方は、わたしたちが負うものなのですが、では、もう一方は誰が負うのか?なのです。 もう、皆さんはお分かりのことと思いますし、ミサの「説教」や「聖書研究会」などで、お聞きのことだと思いますが、くびきのもう一方を担ってくださっているのは、キリストご自身だと思うのです。さらに、くびきは、二頭一対で担いますから、ちょうど、二人三脚のようなもので、どちらか一方が遅かったり早すぎたりしたら、うまく歩めないわけです。異なった種類の動物を一緒に一つのくびきに付けると、速さが違って、うまく歩めず、何よりも動物が傷ついてしまいますから、『聖書』でも申命記22:10で「牛とろばとを一組にして耕してはならない」と書かれています。キリストがわたしたちに与えられるくびきの場合、わたしたちは気がついていないのかもしれませんが、わたしたち一人ひとりの人生の歩みに応じて、キリストがわたしたちの歩みに合わせてくださっているのではないでしょうか。 そうだとしたら、というより、きっとそうだと思うのですが、確かにキリストが仰るように、このくびきほど負いやすいものはないのではないでしょうか。 わたしたちは、ときに、自分の十字架も背負えないほど重いものと感じてしまいますが、すべての人の救いのために、世の十字架を担ってくださったキリストは、今も、いつも、わたしたちのために、わたしたちとともに、このくびきを担ってくださっているのです。 「来なさい重荷を負うもの」=マタイ福音書11章28-30節のくびきに、このような意味があるとすれば、この聖歌を歌うわたしたちもまた、すべての人の救いのために世に来られたキリストの歩みに合わせて主の道を歩まなければならないと思います。そうでなければ、わたしたちは、自分の都合に合わせてキリストをひきずりまわすことになり、何よりも日々、キリストを十字架に付けることになるのではないでしょうか。 この「来なさい重荷を負うもの」には、ただキリストのことばを歌う、ということにとどまらず、キリストとともにその十字架の道を歩む決意と勇気、その確信が必要なのです。そして、この確信があれば、必ず、このことばを耳にした人に、わたしたちの口を通して、キリストのことばが伝わり、その道が示されるのです。【参考文献】『新共同訳聖書辞典』(キリスト新聞社 1995)