示現流 剣と人
1979年 昭和54年 6月号 自分が高校生の時読んだ剣道日本から 引用っーか。。。(今でも持ってます。)◎特集 示現流 剣と人「薩摩の初太刀をはずせ」―かつて近藤勇が隊士たちをこう戒めたのも、この異様な斬声とともに炸裂する一の太刀に、剛剣をもって鳴るこの男さえが「地獄」を見たからであった。幕末という歴史の劇越な潮のなかにあって、これほど剣名を世に問うた剣はない。また、これほど風土と国人の気質と水く深い絆を保ってきた剣はない。だが、その盛名、その鮮烈な印象にくらべて、当流の真実の姿はあまりに秘匿されすぎているようである。三千地獄まで斬れ…今は昔、とある橋の上で薩摩の侠客と江戸の侠客が喧嘩をおっ始めた。取っ組み合いになってくんずほぐれつしていたが、まもなく江戸の侠客にうしろからはがいじめされた薩摩の侠客、「何事あ!こげぃてげぃせんか!」喚きながら相手を橋げたへぐいぐいおしつけた。ところが相手もしたたか者、天地がさかさまになっても放さねえぞという鼻息。すると薩摩の侠客はやおら刀を抜き放つと、「チェースト!!」そいつを自分の脾腹へずぶと突き入れた。人間の串刺しができた…。また、今は昔、かの人斬り半次郎こと桐野利秋が征韓論に破れた西郷隆盛と下野していたときの話。あるとき、桐野の母親がおりから病いにかかっていたことを取り沙汰した何某が、「彼は大根ごつ人斬ったから入来ン神さんが罰当たっつろぅ」と噂したところ、その流言を耳にした桐野秋利、怒った。怒って、ふといゆず棒一本ひっかついで入来までの十里ばかりを歩いて行って、さて、そこの祠へむかって叫ぶらく、「天下の正道ば行うとが桐野秋利だっち。そん母はんば何事ぁ!チェースト!!」もちろん祠はまたたく間にがらくたの山となった。またまた、今は昔ロシア国の皇太子が島津氏を訪れようとしていたおり、前もってロシア艦に乗った西郷隆盛がはたして無事で帰ってくるかどうかということが、薩摩人某と、かれの客とのあいだで議論された。西郷ほどの豪の者が帰ってこれないはずはないー薩人某はこう主張したが、客も一歩たりとも譲らない。すると、某は憤然と座を立ったかと思うと、まもなく、「チェースト!!」絶叫するのが客の耳に聞こえた。某は、厠のなかで自分の喉をかき切って果てていた。「チェースト!!」という薩摩人のあの気合のようなものは遠く関ヶ原の役までさかのぼる。このいくさで西軍についた島津義弘の兵たちが、徳川家康の軍陣のまっただなかを退却してゆくとき、その気を振い立たせる叫びが「チェースト!!」であったという。だから「チェースト!!」には、「議を言うな」「泣こよかひっ翔べ」といったとつかんのエネルギーと、この国でいう「神経どん」の狂気と、そして、ある種の悲愴な誇りがないまぜられている。「チェースト!!」とは、つまりはあの桜島の噴煙ではないかと考えてみる。桜島の地下のマグマは火山ガスとなり、溶岩や破片となって噴火せずにはいられない。それと同じように薩摩隼人の感情は、にわかに高まりいつか熱気となって思わず「チェースト!!」が口をついて出る。桜島は、日に何回か噴火しないと山体は急速に破壊されてゆく。同じく、二才どんも、おごじょも、「チェースト!!」を日に何度か発しないとだめになってしまうとでも感じているかのように、それは焼酎の席、なんこ(箸をつかう遊び)の席で、ぎっつぅた(薩摩琵琶歌)の席で。。。などなどで、ひんぱんに口の端から迸るのだ。その薩摩人のなかに戦乱の世から生き続けてきた示現流は、いかにも薩摩らしい、また、薩摩の人間と土にふさわしい剣だといわれる。なぜか?結論から先に書く。その一の太刀は、まさしく火山の大爆発に匹敵するものであった...。子供の時にすべてを教えよ肉を斬らせて骨を斬るー。示現流とは、つまるところこんなものであろうと思っていたら、これが大いなる誤りであった。肉を斬らせてーつまり、われへの打撃を軽くしておいて敵を倒すという剣理には、微細ながら、なお、生への執着がある。示現流は、これを採らない。『敵に向い死を極め打ち申す儀、毛頭疑無く落着致し候事』と起請文の一条にあるように、死を極めて一の太刀に生を燃焼しつくすのが当流の精神である。「薩人の一の太刀をはずせ」と近藤勇が隊士に訓えたと伝えられるのもこの理由による。まぁ~ほんの一部の話っすけど。。。示現流は、すごいね!現代でも、示現流は、保存会によって受け継がれていると言う。スゴイ鹿児島に行けば、焼酎に、魚が美味いし、温泉もメチャメチャ良かばい。鶴も見られるしねぇ~福岡より好きやなぁ~盆休み、鹿児島神宮に示現流 見に行くとするか。。。