お別れ
先月、施設から連絡があり、パンダ父の微熱が続くので、病院に行ってほしいとのこと。新型インフルでもなく、肺のレントゲン写真もきれい。あれこれ詳しく検査したところ、血流が悪く血管が詰まってるところがあるらしい。それでか、つま先やかかとが冷たくて、紫色になってきている。ちょうどチュソク(中秋節)で連休はおうちで過ごす予定だったので、病院から戻っても、施設ではなく家にいてもらうことになった。が、びっくりした。背中も腰の脇も床ずれが出来ている。足先は日に日に色が悪くなっていく。泣きたくなった。素人が見ても、別れが近いことはわかる。パンダ母がいつもの質問をする。「施設に戻る?家にいる?」もうあまり口もきかなくなったパンダ父が、「家」のところでうなずく。施設にお世話になる前に介護していた頃は、パンダ母もパンダもいらいらしていたし、もちろんわたしもしんどくて、なんで赤ちゃんのお世話はできても、お年寄りの介護はできないんだろう・・・などと思いながら、いつまで続くかわからないお世話にくたびれていた。大げさかもしれないけど、地獄だと思う日もあった。けれど、今回は違う。明らかに、長く続く介護ではないし、家族がしてあげられることも時間も多くはない。となると、自然とみんな優しい気持ちで接することができたと思う。もしかしたら、パンダ父は家族にもう一度優しい心を取り戻すように、家に帰ってきてくれたのかもしれない。子パンダがパンダ父に学校の出来事を話しかけたり、歌を歌ったりしているのを見ると、同居はしんどいことのほうが多かったけど、やっぱり、おじいちゃんおばあちゃんと一緒の暮らしでよかったな。と、今はそう思える。施設から帰って来られて、ちょうど2週間後、10月7日の朝、パンダ父はみんなに見送られて、息を引き取った。お葬式やら納骨やら、バタバタ時間が過ぎていき、しばらく経った週末には、日本の実家の母や兄夫婦も、おくやみに来てくれた。思いがけなく、楽しい時間もすごせて、これもお義父さんのおかげだね、と話していた。今でも、パンを焼くとパンダ父を思い出す。それはパンダ母も同じみたいで、「奥が焼いたパンを差し入れすると、 お父さん一人で全部食べてしまうんだよ。 あたしに 『お前も1個食べるか?』 なんて聞いたことないわよ。」と話してくれた。生前はそれすらも、わたしはボケ食いではないか?と思っていたが、よく考えれば、パンダ父が誰よりも美味しく食べてくれていたんだよね。いつも、誰かが亡くなると、思い出すのは宮沢賢治の『永訣の朝』という詩だ。賢治の妹が亡くなる間際に、「あめゆじゅ とてちてけんじゃ」(雨雪を取って来て 賢さん)外はみぞれが降ってるから、お碗にみぞれを取って来て、と兄に頼む妹とし子。賢治は曲がった鉄砲玉みたいに、欠けたお碗を持って飛び出していく。妹がそう頼んだのは、賢治を「いっしゃう あかるくするために」(一生明るくするために)だと賢治は考える。死にゆく人を前にして、残される人が一番辛いのは、もう何もしてあげられないと思う無力感ではないだろうか。それをわかっていたから、妹とし子は死の間際、賢治にできることを頼み、賢治を一生明るくしてやろうと思ったのだと思う。パンダ父も、とし子のように、残されるパンダ一家を一生明るくするために、最後に家に帰ってきてくれたのだろうね。きっと。ありがとう。お義父さん。これからも家族仲良く元気に暮らすからね。