『にっぽん!歴史鑑定』~真田幸村の半生
今年のNHK大河ドラマは『真田丸』で、戦国のスターであり「日本一の兵(つわもの)」と言われた真田信繁(通称;幸村)が主人公です。そのためか昨年末あたりからTV各局で、真田幸村関連の歴史番組をよく見かけるようになりました。毎週月曜日の夜10時から『にっぽん!歴史鑑定』という番組がBS-TBSで放送されていて、先日の1月4日と11日に真田幸村のことをやっていました。私は後半のほうは見逃したのですが、前半の4日の放送分が「真田幸村に関する通説で、これはどうなのか?」という検証で、なかなか興味深いものでした。そこでちょっとご紹介したいと思います。(以下は番組のまとめです)その1、真田信繁の生まれた年について通説では、永禄10(1567)年だが、天正13(1585)年に上杉景勝のもとへ人質として送られたとき、通説どおりならこのとき19歳で元服も済ませている。しかし上杉家の記録の「景勝公一代略記」には幼名の「弁丸」と記されている。また信繁がこのとき(1585年)に家臣にあてた書状の「諏訪久三安堵状」には、弁丸の名と花押が記されているが、弁丸の名はまだ元服前の名。でも花押は15歳以降に使うことができるもの。つまり、1585年は元服ギリギリ前の15歳であろうと推測。よって信繁の生まれ年は元亀2(1571)年で、大阪夏の陣(1615)で45歳没ではないかと、検証中。その2、初陣の年天正10(1582)年、武田家が滅亡した後、真田昌幸は上杉⇒北条⇒徳川と従属する相手を変えていく。しかし天正12(1584)年、徳川と北条が手を組んだとき、真田昌幸は上杉と手を組むことにし、そのとき信繁は人質として海津城へ行く。そして第一次上田合戦。「真武内伝」には信繁が出場したと記述がある。つまりこのとき信繁は海津城から出て、上田にいたことになる。しかしこのとき信繁の母の山之手殿が海津城にいる(=人質)という記録がある。これは信繁の代わりに母が人質になることを上杉景勝が許したのだろう、ということを検証中。その3、真田一族「忍び」とは真田の忍びとは、「甲州透破(すっぱ)」とか「大かまり」と呼ばれた者たちのこと。敵陣深くでの情報収集やゲリラ戦で重要な役割を果たした。そのルーツと言われるのが山伏。真田の郷の近くには四阿山(あずまやさん)という修験道の聖地があり、ここで修行した山伏たちが超人的な身体能力や呪術を身につけていた。また「歩き巫女」という、旅をしながら禊や祓い、口寄せ(霊を憑依させて語る)を行う者がいた。これも真田の郷の近くの祢津(ねつ)という地にこの歩き巫女を養成する道場があり、そこでは修行の中で護身術も教えていた。これが「くの一」のモデルになったともいわれている。山伏や巫女は、自由に国境を越えて移動することが許されていたので、情報収集にうってつけだった。真田家は彼らの情報を戦で活用していて、この忍びの存在が真田の強さでもあった。その4、秀吉の人質だった時代1585年の第一次上田合戦の後、徳川に対して真田昌之はさらに優位に立とうと、羽柴秀吉との連携を画策。家康と抗戦状態だった秀吉は真田の申し入れを快諾する。しかしその後、天正13(1585)年11月に天正大地震が起こり、領国の被害が甚大だった秀吉は戦どころでなくなり、秀吉は融和策をとって家康と和睦する。その後、真田と徳川が戦になりかけたとき、秀吉は家康と和睦していることもあり、秀吉は真田昌幸に対して矢留(やどめ)(=停戦命令)を出す。天正15(1587)年、真田家は秀吉から、徳川家の与力大名(=合戦の際に加勢を行う大名)になるよう命令され、このとき17歳になっていた信繁は、秀吉の人質&家臣に。1590年の小田原征伐のとき。手柄を挙げた信繁は1万9千石の知行を与えられ、秀吉の側近である馬廻衆になった。だいたいこんな感じの内容でした。真田幸村の話では、大坂の陣に関する話はTVでよく見ますが、若い頃の話はなかなかないので、興味深いものでした。さあ、『真田丸』ではどのように描かれて、役者さんたちがどのように演じてくれるのか、楽しみです。画像は、「しなの号」から見た、木曽川の中流です。こちらの地から大阪は新幹線ですぐ行けますが、真田の郷は・・・とっても遠いです。