大河ドラマ『鎌倉殿の13人』第33回~源頼家は幽閉された修善寺で暗殺され、そして善児はトウからの恨みの刃を我が身に受けて絶命しました
2022年NHK大河ドラマ 『鎌倉殿の13人』 の感想です。今回は、反乱の兆しを見せる源 頼家(金子大地さん)を討たなければならない北条義時(小栗 旬さん)の「こうするしかないのだ」という葛藤と、終盤の頼家の暗殺が行われる場面が見どころでした。いや~、もう、頼家@金子さんと善児@梶原 善さんの、ラストでのお二人の殺陣は本当に素晴らしかったですね。あのシーンは何度もリピートして見入ってしまいました。頼家の最期でよく言われているような風呂場での悲惨な状況とかじゃなく、それこそ「見栄えのする最期」をつくった脚本と演出は、まさに見事だと思います。思えばこのドラマが始まってからずっと、クレジットで「善児」の名が出るだけで多くの視聴者に緊張が走り、今日は誰がやられるのかと身構えていました。それが前回の一幡との関わりの場面から、善児に対する視聴者の思いが180度変わったように感じました。だから今回のラストでは、感想ツイートの中には「善児、死ぬな!」という声もあったそうですね。演劇やドラマでは、はじめにある登場人物に抱いた観る側の感情が、あるときを境に反転してしまう、あるいは徐々に変化していってはじめと全く違ったものになっているということが、演者の力量次第で起こるとは聞いていましたが、まさにそうでした。感動の名演を、梶原善さん、ありがとうございました。善児役・梶原善さんインタビュー ⇒ ⇒ こちら 実は私、今まで気がつかなかったのですが、 ↓ ↓ NHK『鎌倉殿の13人』のHPでは、各回の『吾妻鏡』の内容を紹介しています ⇒ ⇒ こちら (「歴史」をクリックするとこれまでのがまとめて出てきます)こちらではいろいろな感想で盛り上がっています。 ⇒ ⇒ #鎌倉殿の13人 大河ドラマ館、伊豆の国市でオープンしました。 ⇒ ⇒ こちら 大河ドラマ館、鎌倉市にオープンしました。 ⇒ ⇒ こちら 各地のNHK放送局で順次開催する 全国巡回展 が開催されています。 ⇒ ⇒ こちら 建仁3年(1203)10月9日、第3代鎌倉殿となった源 実朝(嶺岸煌桜くん)の政務開始の儀式である政所始が行われ、北条時政(坂東彌十郎さん)が行政の筆頭である執権別当ととして取り仕切りました。時政は鎌倉より離れた西の御家人たちの動きが気になり、西国の御家人たちに鎌倉殿への忠義を示す起請文を書かせるよう、京にいる娘婿の平賀朝雅に命じました。さらに時政は、亡き比企一族が所領としていた武蔵を自分が引き継ぐと勝手に決めてしまい、時政及び北条一族は他の御家人たちから反感を買ってました。北条に対する不評を三浦義村から聞いていた北条義時や時房らはそれを気にしていたのですが、肝心の父・時政は愛妻・りく(宮沢りえさん)の考える通りに事が運んでいて上機嫌で、りくは「次は武蔵」「次は御台所」と自分が権力を手に入れるためにやる事を、夫・時政にやらせようとしていました。たださすがの時政も「次の執権は(りくが産んだ子の)政範」と言われたときは快い返事はせずにごまかしていました。(りくが自分が産んだ子に継がせたい気持ちはわかるけど、時政にとって義時は頼朝挙兵の頃から長年一緒に戦って修羅場をくぐり抜けてきた子で、今では北条家の中でだれよりも頼りにしている、時政にとって特別な子だと思います。)11月に入り、修善寺に幽閉された源 頼家(金子大地さん)から幕府の重臣たちにいくつかの要求が届きましたが、それはとても受け入れられるものではないと意見がまとまり、三浦義村(山本耕史さん)が修善寺に使者に立ちました。頼家は父・頼朝が石橋山の戦の後にすぐ立て直したことを例にあげ、今は幽閉されているがそのうち軍勢を率いて鎌倉を火の海にして北条を討ち取る!と言いました。そして義村が頼家に「ならばやればいい」と言うと、頼家は義村に力を貸すよう頼みましたが、義村はそれを断り立ち去っていきました。修善寺でのことを義村から報告を受けた北条義時(小栗 旬さん)ら重臣たちは、頼家をどうするか話し合いをしました。義村は頼家の挙兵は無理だと考えるものの、大江広元(栗原英雄さん)は頼家の鎌倉に対する恨みの強さを懸念し、早めに手を打ったほうがいいと意見しました。時政が「やるか」と言ったときに何人かから「そこまでは」と意見がありましたが、時政にしたら頼家はかわいい孫で自分だって辛いのだと訴えました。結局このときは、警護を増やして当面は様子を見よう、警護は八田知家に、頼家に不信な動きがあればそのときは、という義時の意見でまとまりました。尼御台の政子は、自分の次男の実朝が鎌倉殿になったものの、実朝の性格的に政は向かないと考えていて、三善康信(小林 隆さん)に実朝に和歌を教えて欲しいと頼みました。康信は実朝のためにたくさん資料を用意して、元服したとはいえまだ12歳の実朝にわかりやすいよう、易しく教えていました。(現代の塾なら生徒に大人気の先生になりそうですね)鎌倉殿・実朝のことは母である姉の政子ではなく、乳母である自分が決めると考える実衣(宮澤エマさん)は、実朝が鎌倉殿としてふさわしい人になるよう厳しく教育すべきと考え、康信の教え方には不満でした。そして、建仁4年(1204)の正月の読書始の儀式で儒学の講義をした、京から来た源 仲章(生田斗真さん)を実朝の和歌の師にし、仲章に自分のやり方を全否定された康信はいたたまれなくなって、急ぎ退出していきました。持参した大量の巻物や書物を慌てて落とす康信を、実朝は心配そうに見ていました。頼家は修善寺に来た畠山重忠(中川大志さん)と足立遠元に、武蔵の領地を時政が狙っていると二人に疑念を抱かせることを話していました。鎌倉に戻った重忠はすぐにそのことを重臣たちに報告し、一同は頼家が京と通じているのでは?と考えました。そのとき修善寺を警護している八田知家(市原隼人さん)が入ってきて、修善寺に来ている猿楽衆の一人が京に向かおうとしていて、その者は頼家が後鳥羽上皇に宛てた北条追討を願う内容の扇を持っていました。皆は頼家が反乱の準備をしていると確信し、頼家を討ち取る決意をしました。義時は頼家を討つことを命じるために善児とトウが暮らす小屋に来ました。義時の弟・北条時房(瀬戸康史さん)は、頼家と上皇が結託すれば大きな戦になるから今のうちに火種を消すべしと、兄・義時と同じ考えでした。でも義時の嫡男・泰時は頼家を死なせたくないと純粋な気持ちのままで、時房は兄・義時にとって泰時は希望なのだと感じていました。しかし義時が何気なく奥の台に目をやったとき、兄・宗時がいつも持っていた巾着を見つけ、そのときに二人は長兄・宗時を殺害したのは善児であった確信しました。義時にとって泰時が光ならば自分は影の部分を引き受けると決めた時房は、自分が善児を斬ると義時に言いますが、義時は今の自分には善児を責められないと言って時房を止め、善児を生かし仕事を命じました。亡き頼朝の遺児であり自分にとっても甥である頼家を討たなけれなばらない義時は、その重たい気持ちを紛らわしたくて和田義盛の屋敷に来ました。するとそこには仏師の運慶(相島一之さん)が来ていて、義盛が座を外したときに義時は久しぶりに会った運慶と二人で話しました。運慶は15年ぶりに見た義時を「悪い顔になった」といいつつ、でも「まだ救いはある。お前は己の生き方に迷いがある。その迷いが救いだ。」と、そして「悪い顔だがいい顔だ。」と言ってくれました。間もなく鎌倉を発つ運慶は義時の顔をじっと見て、いつかお前のために仏を彫ってやりたい、いい仏ができそうだと笑ってくれました。夜になり、修善寺では猿楽が始まりました。頼家に逃げるよう注進に来た北条泰時(坂口健太郎さん)でしたが、頼家は逃げるつもりはないと言い、泰時に一緒に猿楽を観ていくよう言いました。しかし猿楽の奏者の一人に違和感を感じた泰時は、これが頼家の暗殺者かと直感し、舞の途中でその者に近づいて刀を抜くと、やはり善児(梶原 善さん)でした。泰時と善児の斬り合いが始まりそこにトウも来て、義時から殺さないように言われている泰時と、泰時を助けようと飛びこんできた鶴丸は気絶させられました。頼家の警護の者たちは庭でトウが引き受けて戦い、善児は奥に逃げて一人になった頼家と一対一で戦うことになりました。思ったより手強い頼家でしたが、善児があと少しで頼家をというときに善児の目に「一幡」と書かれた文字が飛びこんできました。善児にとって初めて愛おしいと思った幼子の名で善児に一瞬の隙ができ、頼家から腹を刺される反撃を受け善児は庭の舞台に倒れこみました。しかし善児を追いかけてきた頼家は背後からきたトウに斬られ、絶命しました。(ここで感想ツイートでは、「善児はおそらく字が読めないけど一幡の手習いを見ていて一幡の字だけは読めたから動揺した。」という意見が多数ありました。でも私は、善児はいわゆる忍びのようなことをやっていたので、武術だけでなく文字の読み書き等の教養も仕込まれていたのではと思いました。)やがて雨が降り始め、気絶していた泰時と鶴丸(きづき さん)は目が覚めました。しかし舞台の上を見たときにそこにあったのは、かつて主君として仕え、従兄弟でもあり、あれほど生を望んだ頼家の無残に斬り殺された遺骸でした。頼家の死を嘆き悲しむ泰時と、頼家の死を悼み、主人であり友である泰時の悲しみが自分も辛い鶴丸の姿がありました。元久元年(1204)7月18日、源頼家死去、享年23でした。深手を負いながらもなんとか寺から抜け出した善児でしたが、自分もこれで終わりかと思ったときに、背後から刀で再び刺されました。それは暗殺者として自分の跡継ぎにと育てたトウ(山本千尋さん)で、トウは自分の両親を殺めた善児を決して許してはいなかったのです。トウは「このときを待っていた。父の仇!母の…仇。」と言いながらもう動けない善児の体に刃を突き刺していき、絶命を見届けてその場を去っていきました。(善児はあれだけの深手で放っておいても死んだでしょうから、トウは恨み言だけを伝えて去ってもよかったのです。それでも善児を刺していったのは、半分は自分の恨みを晴らし、半分は苦しむ善児の介錯だったのかと。自分に武術を仕込んで暗殺者として生きる術を与えてくれた師匠への情もあったと思います。)