大河ドラマ『青天を衝け』第24回~お国の役に立ちたい篤太夫は自分の目指すものをフランスの地でつかみ、そして混沌とした日本への帰国の途に
2021年NHK大河ドラマ 『青天を衝け』 の感想です。オリンピック関連で今年の大河ドラマは3週間放送が空き、久しぶりにオープニングのテーマ曲を聴きました。最初のころは印象が薄かったテーマ曲ではありましたが、ドラマの回が進む毎に耳に馴染んできて、近代化していく日本を作っていく渋沢栄一に相応しい、前向きで明るいいい曲だなと思うようになりました。NHK交響楽団によるテーマ音楽を指揮する尾高忠明氏は、渋沢栄一と尾高惇忠の曾孫だそうですね。曾祖父たちの足跡を元にした大河ドラマの音楽の指揮ができるなんて、さぞや感慨深いであろうと想像いたします。今回のドラマの見どころは、中盤で自信過剰で文句ばかり言う甘ったれた留学生たちにキレた渋沢栄一(篤太夫)が一喝したところと、帰国を前にして自分の探し求めるもの(株式)を見つけて、思い描く未来ができて嬉しくて胸が躍る篤太夫の姿だと思います。日本を発展させる志を持った若者(渋沢栄一)に、経済を回すという大事なことを教えてくれた銀行家のエラールさん、本当にありがとうございましたパリ滞在中の篤太夫に大きな影響を与えたのが、銀行家のエラールです。 ⇒ ⇒ こちら そしてお馴染み、地図のゼンリンさんが歴史のマップを今回もちゃんと作ってくれました。昭武公ご一行の帰国ルートを整理しました ⇒ ⇒ こちら 鳥羽・伏見の戦い は小枝橋付近にて勃発しました ⇒ ⇒ こちら 大河ドラマ館も2か所でオープンしています。※埼玉県深谷市 こちら ※東京都北区 こちら ※こちらも盛り上がっています ⇒ #青天を衝け ドラマ内のことが解説されてます #青天ナビ 慶応3年(1867)の年の瀬、パリから一足先に帰国した外国奉行の杉浦愛蔵が、篤太夫(渋沢栄一)の文などを持って、血洗島の渋沢家を訪れました。杉浦が持ってきた民部公子のホトガラフを皆はありがたがって拝んでいました。でも洋装になった栄一の姿を映したホトガラフには、皆は珍しがって見ていたのに、妻の千代(橋本 愛さん)だけは夫の姿を快く思えず「あさましい」とさえ感じました。そんな千代に父・市郎右衛門は「姿形は違っても栄一は大和魂をなくしたりはしない」と言い、他の家族や村人たちも市郎右衛門と同じ気持ちでした。そして慶応4年(1868)の年が明けたパリでは民部公子(徳川昭武;板垣李光人さん)を囲んでシャンパンで新年を祝っていましたが、そこへ日本から御用状が届きました。文には昭武の兄で将軍の徳川慶喜が政権を朝廷に返上したとあり、パリにいる一同にはにわかに信じられない思いでした。昭武は、政権が朝廷に移って自分はどうなるのか、まだパリで学びを続けたいと不安を抱え、また会計を管理している渋沢篤太夫(吉沢 亮さん)は留学費用が心配でした。そんな篤太夫のところに銀行家のエラールが来て、篤太夫を証券に誘ってくれました。ちなみに昭武は、留学先のパリでは猛勉強だったそうです。 ⇒ こちら 2月になると、日本の状況を知らせる御用状がまた江戸からパリに届きました。そこには慶喜が京から大坂城に引き上げ大坂城には公儀の兵が集結とあり、栗本鋤雲(池内万作さん)は「その報は信じられぬ!」と強く否定しました。(この時代、文が届くのに京から江戸まで早馬で3日、日本からパリまでは1カ月ほどかかったと想定して、この文の内容は鳥羽伏見の戦いが始まる直前と想像しました)そして日本からは篤太夫あての文もいくつか届きました。篤太夫の見立て養子となった平九郎から、従兄弟の尾高惇忠からは長七郎が罪を赦され牢を出て家に戻ったことが、母からは家族の近況と篤太夫の身を案じる思いが、そして一番楽しみにしていた妻の千代からは「あなたの姿に激しく失望した(意訳)」と。てっきり千代は自分の姿を喜んでくれると思っていた篤太夫には残念な内容でしたが、それでも篤太夫は千代に会いたい思いがただ募るばかりでした。そして3月、日本の近況を知らせる次の御用状がパリに届きました。それによると、慶喜は天皇の傍にいる悪者を取り除くため兵を率いて上京、しかし正月2日に鳥羽伏見で薩摩と開戦になり、7日まで戦うも全軍敗戦となり守口まで撤退、そしてなんと6日には慶喜が密かに大坂城を出て幕府の軍艦の開陽丸で江戸に戻ったと。さらに朝廷は慶喜を朝敵として関東征討の勅命を出し兵を率いて江戸に向かう、という風説まであり、あまりの展開に一同は激しい衝撃を受けました。昭武の元には兄・慶喜から直書が届いていて、それには「日本は内輪で騒動をしている場合ではない、それゆえこのようにした。昭武はそのまま留学を続けよ」とありました。どうしたらよいのかわからぬという昭武に篤太夫は文で慶喜を諫めることを提言します。「政権を朝廷に返上したのになぜ兵を動かしたのか、なぜ戦を途中でやめたのか、この先臆病・暗愚と罵られると分かっていてなぜ兵を置き去りにして江戸に戻ったのか、江戸幕府をこのように終わらせ東照大権現様になんと申し開きをするのか」と。そして4月、栗本や高松凌雲らが一足先に帰国していき、閏4月には鳥羽伏見の戦いに加わっていた従兄弟の渋沢成一郎から篤太夫の元に文が届きました。文には、上様(慶喜)は上野の寛永寺で蟄居しているが命の保証はない、尊王の大義に背いたことがない上様のために自分は同志と戦うとあり、篤太夫は涙があふれました。そんなとき欧州各国に留学していた若者たちが日本に急遽戻ることになって、篤太夫はその者たちが無事に帰国できるよう世話をしていたのですが、彼らは狭いとかベッドがないとか待遇が悪いとか文句ばかり言い立てます。彼らのあまりの態度の悪さに我慢できなくなった篤太夫は黙っていられなくなりーー「一体お主らは今の日本の状況がわかっているのか。自分はお主らが荷物扱いで帰国することがないよう取り計らってやった。それはお主らのためではなく国の名誉のため。こちらは今ある大事な金で取り計らったのにその苦労も意味も察することができない、ただ知識が多くあれば偉いと思うのか?公儀はこんな奴らを育てるために苦しい懐から留学させたのか?ならば自分は公儀のために嘆く。ここで嫌ならすぐさま出てけ!!お国が戦というこの一大事、どんな柔らかい床で寝ても臥薪嘗胆の心があって然るべきじゃないか!!」ーー篤太夫は留学生たちを激しく叱り飛ばしました。留学生たちは慌てて土下座して詫び、その様を見ていた菊池平八郎(町田悠宇さん)は篤太夫という人間を見直したようでした。5月になると新政府から昭武に帰国命令が出ましたが、昭武はすぐには動かずまだパリに留まったままでした。そして7月には水戸の徳川慶篤(昭武の長兄)が亡くなり、さらに昭武が水戸藩を継ぐよう新政府が決めたという報が入りました。しかし日本がどうなっているか全くわからず判断しかねていると前駐日公使のロッシュがフランスに戻ってきて昭武に、帰国命令は無視して学問を続ければよい、今は会津が新政府軍と戦っているから帰国すると危ないと助言をくれました。しかし昭武はもう帰国の覚悟を決めていて、フランスの皆に深く礼を言いました。篤太夫が住んでいた館をあらかた片付けたときエラールが入ってきました。篤太夫はエラールに館の後始末を頼み、そして先日連れてってくれた証券会社で行った投資で大きな利益を得たことに礼を言いました。そして何より、エラールは篤太夫にもっと大事な社会の仕組みを教えてくれていました。“Capital Social”ーー上下水道や鉄道もそう、志はよくても一人では出来そうにないことが、多くの人から少しずつ「金」を集めることで可能になる。小さな金が集まって大きな資本となる。貸すほうだって事業がうまくいけば配当金をもらえる。ーーこの話を聞いた篤太夫は、「一人が嬉しいのではなく皆が幸せになる。一人一人の力で世の中を変えることができる。俺が探し求めていたのは、これだ!」と、日の本を発展させるために自分は何をしたらいいのかを見つけて、胸を躍らせていました。帰国してから学んだことが活かせる自信はないけど、「どんなことになってもこの手で日本のために尽くす」とフリュリ・エラール(グレッグ・デールさん)に誓い、そんな篤太夫にエラールは日本語で「期待してます」とエールをくれました。そして慶応4年(1868)8月末、昭武の一行がいよいよパリを去る日がきました。篤太夫はいろいろ世話になったアパートの家族に別れを告げ、昭武はフランスでの教師だった陸軍中佐のヴィレット(サンシモンさん)からインモルテル(=Immortelle、フランス語で「不滅」の意味)の花束をもらい、互いに別れを惜しみました。そして一行は、混沌とした政情の日本へと帰国の途につきました。