「聖書・・・その1」
しずくが判る範囲内はまだごく限られて少ないですが、どの「たとえ話」も今のしずくの心の指針となっているものばかりです。その内の2つについて、今回は書きたいと思います。 黄金律 ( おうごんりつ ) 何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。 これが律法であり預言者です。 これは今、しずくが一番心掛けている指針です。 日常全般にこれを行なっていくよう心掛けています。 特に仕事の時は、これを実行するようにしています。 「しずくがこうやってもらったら、嬉しいな」と思うことを相手のかたに してあげる。 そうするとみんな笑顔で「ありがとうね・・・」と言ってくださる。 なかには「よく気がきくな。ありがとう」と言われる方もいる。 「私とあなた」「自分と相手」・・・「自分=相手」 「自他一体」ということ。「自分と相手はひとつ」これは隣人愛にも繋がる。 真理(神理)そのもの・・・ 狭い門と大きな門について (せまいもんとおおきなもん) 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。 そして、そこから入って行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。 努力して狭い門から入りなさい。 大きい門とは・・・ 世間一般のおおぜいの人達が集うもの。また、誰かに「悟らせてもらう」とか、 高次の存在のエネルギーを受けて「波動を上げてもらう」等 例をあげればきりがない。 これは自力ではなく他力にすなわち他人にすがるということ。 小さい門とは・・・ 上江洲先生は子の道を「細く長い道」とおっしゃっています。 知花先生は、「この道を通る者があまりにも少ない為、今では雑草が生い茂り歩けない のでその道を掃除するために来た」とおっしゃっています。 この道こそ、イエスさまや仏陀、覚者の方々、知花先生・上江洲先生が通られた道。 いのちは神であるので、または神に至る道と言い換えてもいいと思います。 この道は、非常に困難な辛い道であり、選ぶ者も少ないが最後の門までたどり着く までに脱落してしまう者が多い道でもある。 努力して耐え忍んで狭い門に到達で来たら、その先は永遠の至福がある 子の道は先人たちの後ろ姿をみればわかるが、自力努力のみです。 知花先生も上江洲先生も「本物はそう簡単にやすやすとは手に入らない」 とおっしゃっておられます。 どの門の道を選ぶのかは、それぞれ私達一人一人の自由に選べるのです。 どの道を選ぶのかは、あ・な・た し・だ・い・・・ ただ、一つ言えることは「死んでから後悔しない」ということだけです。本日もこのブログをご訪問してくださったみなさま、本当にありがとうございますみなさまのハートに響くものがあったのなら、嬉しいです。次回も「聖書その2」でたとえ話について書いていきたいと思います。 全ては大生命に満ちあふれているなり・・・ 我も大生命なり・・・