世田谷吉良氏
クレマチス吉良といえば赤穂浪士の吉良上野介を思い出しますが、世田谷吉良氏と吉良上野介の先祖をたどれば、いずれも源義家です。北条早雲が小田原に城を構えてから、関八州に絶大な勢力を誇っていた北条氏は、世田谷吉良氏が足利氏の一族であることを重視し、これを滅ぼさずに平和的に懐柔しようと考えました。14世紀の半ば、奥州探題の吉良氏が、足利氏の鎌倉府開設とともに、世田谷に居を構えました。豪徳寺に隣接した世田谷城址はその館跡とされています。その後の吉良氏の領域と考えられているのは、世田谷を中心として、多摩、豊島、橘樹、都筑、久良岐の諸郡、さらに入間、新座に及んび、吉良氏は二代に渡る政略結婚によって北条氏と縁戚であり、南関東の名家として、新興勢力と妥協してその傘下に服し、地位は安定していました。世田谷では、小田原と各支城を結ぶ相武貫通路が整備され、また江戸城の大修築により、世田谷を通過する大山道は重要な意義をもつようになりました。1590年、小田原城落城と運命をともにした吉良氏は、所領没収され、世田谷城は廃城となり、吉良氏朝は下野の国生実に逃れ、身を隠しましたが、間もなく世田谷に戻って、弦巻に蟄居して学翁斎と号し、隠遁生活を送っていました。北条氏に代わって江戸へ入国した家康は、その名家が滅び行くのを惜しんで、関東各地に散っていた旧家、名家の者たちを家臣に取り立て、優遇しました。吉良氏朝の子蒔田頼久も召抱え、上総国に領地を与え、旗本として名跡を継がせました。吉良上野介がお家断絶になったので、蒔田が吉良の旧称に戻って高家に引き立てられました。