もう一つの「ヤクソク」その39・・・歳月
ウソンとその妻が帰っていった。その後姿を見送りながら、母がぽつりと言う。「あんなにワンパクだったウソンも父親になるんだね」その寂しげな肩を見ていたら、申し訳ない気分になった。「母さん・・・」「ソンジェ、お前も早くいい娘を見つけて結婚しておくれ。そして可愛い孫を私に抱かせてくれないかい?」母の頼みは拒絶できない。「ねえ、もしお前にその気があるのなら、また近所のおばさんに頼んでおこうか?いい娘を紹介してくれるはずだから」「母さん、僕はまだ結婚を考えていないんだ。もう少し待ってくれないかな・・・・?」「何を言っているんだい、そんなこといっていたら、すぐおじいさんになってしまうよ!私だって、父さんのようにいつ何があるかわからないんだ。私が元気なうちに決めておくれ」そうだった。あんなに元気だった父さんも、日本に行っている間に亡くなってしまった。ソンウだって・・・。「母さん。僕は気になることがあるんだ。ソンウの恋人のことなんだけど・・・」「ソンウを殺した日本人の女の話なんてしないでおくれ!聞きたくもない!」ソンジェは佳織が妊娠しているかもしれないことを母に伝えたかったが、無理だった。耳をふさいで黙り込む母の肩を抱き、ソンジェは葉子のことを考えていた。『葉子さん・・・。貴女に会いたいよ。僕のことを忘れてしまったことは、身を引き裂かれるように辛い。でも、僕はそれでも貴女のことを忘れられない・・・。会いたい、会って抱きしめたい、そして口づけたい』ソンジェの記憶が葉子の中から消えたとしても、自分は葉子を鮮明に覚えている。あの優しい瞳も、温かな笑顔も、甘い香りも、そして柔らかな唇も・・・。『僕はきっと一生葉子さんのことをわすれないだろう。こんな気持ちのまま、他の女性と結婚なんてできない。したくない。母さんには悪いけど、僕は葉子さんだけを想って生きていきたいんだ。たとえそれが報われない恋だとしても』ソンジェは葉子への消せぬ想いを抱いたまま、生きていくことを決めた。2年の月日が過ぎた。母や兄が執拗に勧めるお見合いの話を断り続け、毎日時間を忘れて働いた。兄が亡き父から受け継いだ工場を、ソンジェも手伝っていたのだ。たまの休みには、利川にいき陶芸を続けている。しかしなかなか思うように時間はとれなかった。土に触れない日には、買いためた陶芸関係の本を見て気晴らしをする。陶芸の本を開くたびに、葉子を思い出した。『葉子さん、今頃何をしているの?貴女はまだ安土で陶芸をしているのだろうか。葉子さんが僕を忘れてしまっていても、僕たちは陶芸でつながっているんだよね。土に触るたびに貴女のこと、そして安土のことを思い出すよ』ウソンのところには可愛い赤ん坊が産まれた。彼はしばしば赤ん坊を連れてソンジェの家に遊びにくる。その赤ん坊を見るたびに、ソンジェは佳織のことを思った。もしかして彼女は今、たった一人でソンウの子どもを育てているのかもしれない。ソンウの夢を理解せず、恋さえも認めなかった自分が恥ずかしかった。もし佳織がソンウの子どもを育てているのなら、彼女の力になりたかった。ソンウにあやまれなかった分、佳織とその子どもに何かしてやりたい。ソンジェはもう一度日本にいくつもりだった。2年の間にソンジェは日本への旅費をこつこつと貯めていたのだ。母と兄は大反対するだろう。でもどうしても認めてもらう。佳織とその子どもが気になるというのは、もちろんだが、やはりソンジェの心の中には葉子がいた。『葉子さん、貴女はあれからどうしているの?記憶をなくしているのなら、井出先生とはうまくいっているのだろうか。まだ辛い思いをしていないかな。井出先生に言われるまでもなく、僕はもう貴女の前には姿を現さない。でも、陰ながら見守っていてもいいよね?貴女が本当に幸せでいるのならいいけれど・・・』