もう一つの「ヤクソク」その6・・・すれ違い
その夜、ソンジェは夢を見た。あの女性と並んで歩いている。場所はつくし野駅近くの公園のようだ。彼女は微笑んでソンジェを見上げている。「僕、ソンジェといいます。チョン・ソンジェです」ソンジェは彼女の名前が知りたかった。「あなたの名前は?」「私?私は・・・。」彼女が口を開こうとした時、後ろから大声がした。「ソンジェ!!」振り向くと、ソウルにいるはずの兄ソンミンと父親、母親が立っている。「ソンウだけじゃなく、お前まで、ソンジェ。そんな日本人の女にだまされるなんて!」ソンジェは驚いて言った。「違うんだ、彼女は悪い人じゃない。僕はだまされていない。僕のほうから彼女に近づいたんだ」「何だって?ソンジェ」ソンミンはますます声を荒げた。「お前は忘れたのか?お祖父さんが日本人にどんな目に合わされたのか。日本人は決して許さない!」「待って、話を聞いて、兄さん」ソンジェの必死の釈明にも、ソンミンは耳を貸さず、両親と共にソンジェに背を向けて行ってしまった。「待って!待って!話を聞いてくれ!彼女はそんな人じゃないんだ!」自分の声に驚いて、ソンジェは目が覚めた。びっしょりと汗をかいている。隣を見ると、恭一が驚いた顔でソンジェを見ていた。「あ、ごめんなさい。起こしてしまいましたか?」「いや、それはいいけどよ、どうしたんだ?なんかうなされていたぞ」「いえ、何でもないです」ソンジェがそういって背中を向けようとした時、恭一が言った。「なあ、お前、ソンウが見つからなくて気が滅入っているんじゃないか?久し振りにぱぁ~とやろうか。今日臨時収入が入る予定なんだよ。それで新宿にでも繰り出そうぜ」「臨時収入?どうしてですか?」「いやちょっとな」そういうと恭一は何か思い出したように、ニヤリと笑った。次の日、恭一は再びつくし野駅前で店開きをしようと言った。ソンジェはあの女性と約束しているので好都合だったが、恭一の様子がどこかおかしい。朝から落ち着きがなく、時計ばかり見ている。客が来てもソンジェにばかり応対をさせる。「誰かと待ち合わせですか?」「ああ、ちょっとな。しばらく出てくるから、店番していてくれ」そういうと恭一は出かけていった。ソンジェはぼんやりと昨夜の夢を思い出していた。『兄さんや父さん、母さんもやっぱり僕が日本人の女性に恋をしたとわかったら、ソンウの時のように反対するだろうな。あぁでもソンウ。お前はこんな気持ちだったのか。どうして僕はあの時兄さんたちと一緒に、ソンウの恋に反対してしまったんだろう・・・』「アニョンハセヨ!!」元気な声がした。恭一がソンジェのファンクラブの奴らと言っている、いつもの女子中学生3人組だ。「ねぇお兄さん、写真とらせて!」一番髪の長い少女がケータイ電話を片手に言う。彼女たちの明るさは嫌ではなく、むしろ微笑ましかった。しかしその気持ちは恋とは違う。正直なところ、ソンジェは戸惑っていた。「ねぇ、いいでしょ?はい、チーズ!」強引にカメラのシャッターを切る少女。ソンジェはその少女のなかに、あの女性の面影を見た。『いったいどうしてしまったんだ?誰を見ても彼女に見えてしまうなんて』あの女性との約束の時間が迫ってきていた。ソンジェは恭一の帰りを今か今かと待っていた。ようやく恭一が戻ってきた。ソンジェは恭一に後を頼むと、あわてて店を飛び出る。『急げばまだ間に合う』はやる心を抑えながら、あの公園に急ぐ。この陸橋を越えれば、目的地だ。陸橋の陰に小学生の男児が数人、たむろしていたソンジェは何気なく、彼らを見る。まんなかにいる男の子が、周りの子に小突かれている。ランドセルが無造作に投げ出されていた。「おい、何をやっているんだ?」思わず韓国語で叫んだ。ソンジェを見た男の子たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。まんなかに立っていた男の子だけが、力なく立っている。落ちていたランドセルを拾い上げ、ソンジェは土を払って男の子に渡した。「だいじょうぶ?」ソンジェの問いには答えず、男の子はランドセルをひったくって行ってしまった。『あの子の口元、あの人に似ていたな・・・。どうしたんだ?皆あの人に見えてしまう・・・』ソンジェはそう思いながら、公園への道を急いだ。公園に駆け込んだ。しかしベンチはもぬけの殻だ。公園に置いてある時計を見る。約束の時間はとうに過ぎていた。『しまった!』ソンジェはあわてて公園のまわりを走り、あの人を探した。どこを探しても、あの人の姿はなかった。彼女に会えるということがうれしくて、空に向かってでも駆け出していけそうだったソンジェの心は、急にしぼんでいった。力が抜け、ソンジェはベンチに座り込んでしまった。