蛇足的駄文
>私の子は、大きくなった時、私の子でよかったと思ってくれるだろうか。昨日、落とし所が見つからなくて蛇足的に書いた一文が、思いのほか、私の中で引っかかっている。子どもは、自分がこの親の下に生まれてよかった、と思うものだろうか。>私の子は、大きくなった時、私の子でよかったと思ってくれるだろうか。この一文には、「私の子でよかったと思ってほしい」というエゴが透けて見える。「思ってくれるだろうか。 いやそうに違いない」反語。なんか、そんな国語の授業を高校時代に受けたよねー、と(笑私は長く親を恨んできた。この親の下に生まれてよかった、とは今もって思えない。私は親たちのせいでたくさんのことをあきらめて来たし、たくさんの遠回りをしてきたと思っている。親を怨む気持ちを捨てるためにたくさんの努力をしてきたし、遠回りの道程や、ここまでの努力の積み重ねの中で得て来たものは多いから、それらを切り離して今の私を考えることが出来ないくらい大切なものではあるけれど、だからと言って、あの黒々とした努力を必要とする環境を肯定する気にはならない。もし可能なら。親を怨むことも、恨みを昇華させる努力も、必要ない生をおくりたかったと思う。そういう意味では、今もまだ、この親の下に生まれてよかった、とは思えない。でも。この親以外の下に生まれた私を想像することは、出来ない。この親が私に与えられた、変えられない環境だからだろう。親を恨んできた長い間、私はこの親の下に生まれなければよかったと思って来た。この両親が私の親でなければ、私はもっと自由に生きていられたはずなのに、と。そして、理想の両親を空想の中に作ってきた。けれど、理想は理想に過ぎない。有名人が彼氏だと妄想するようなもので、現実味を帯びたものではない。私にこの両親以外に親は無い、ということを現実でちゃんと受け入れているからこそ、自分勝手な理想を思い描くことが出来たのだと思う。>私の子は、大きくなった時、私の子でよかったと思ってくれるだろうか。答えは、否、だ。私が「良き母」であるか、そうでないかとは関係がない。子どもにとって、親とは変えがたい環境に違いなく、そのことを無条件に受け入れているものだから。それでも、たとえば結婚や、死別など、人生の区切りになる時に、私が親でよかったと思ってほしい、とは思う。でも、それは私のエゴだ。私は、子どもたちが私の子に生まれて来てくれてよかったと思っている。だから、同じように子どもたちにも思ってほしい。ただそれだけのことだ。でも、それを押し付けるのは暴力だろう。自分が相手を好きなことと、相手が自分を好きなことは、関係がありそうで、実は全然関係ないことなのだから。私は、「私の子でよかったと思ってほしい」というエゴを抱えている。たぶん、そのことをエゴだと認識していることで、私は私に対して、冷静でいられると思う。そして。今のところ、3人とも私のことを大好きだ、ということを知っている私のことを、幸せ者だと思う。