トルコで白須英子『イスラーム世界の女性たち』を読む
読書の秋でございます…イキナリですが、ワタクシには「ノゾキ」のようなえげつない趣味はないですが、女性の生き方にはとっても興味があります。これはおそらく高校・大学と女子校で女ばかりの環境で過ごしたことが起因しているんだと思うのですが。(注:決してワタクシはレズビアンではございません)今から考えれば「イスラーム世界」よろしく女ばかりの隔離された世界であったけど、男がいないということで視線も気にせず(要するにいつもベールを被っている状態)、非常にノビノビと過ごすことが出来た。(現にトルコでもスカーフを被ってる女性の多くは「慣れで被っている」「被ってないと落ち着かない」と答えている)そして今ワタクシは信仰は別として地理的に「イスラーム世界」で生きている。日本で女ばかりの世界で育ち、現在イスラム国で生きているワタクシ、イスラム女性とたくさん共通点があるんじゃないかと感じたのです。というわけで、白須英子「イスラーム世界の女性たち」(文春新書)を選んだのですが。イスラムの女性にまつわる実際起こった事件をコーランに沿って、彼女の視点で解釈してある、さすが「翻訳家」の一冊といったかんじ。読んでいて同感だと思ったのは、イスラムが伝播する前の、その土地の風習や慣習を守る為に、イスラムが都合よく解釈され、利用されてしまっていること。これは本当にその土地の女性に気の毒としかいいようがない。例えば「女性は貞操を守らねばならない」ため、アフリカでは女性の割礼がいまだに行われているが、割礼をしろなどとコーランのどこにも記載はない。貧困層で女子の識字率が低いのは「女が知恵をつけると家でじっとしていないから」しかしコーランで家を守らねばならないと記載はあっても、無知でいろとは書いてない。またイスラムには「恥の文化」があり、これなんぞ日本と同じではないか?と思ってしまう。見栄や体裁を守りたがり、本質を見失うところなぞ、そのまんまという気もする。そう、イスラム社会は日本の戦前の「男尊女卑」の時代、日本の封建的な田舎社会に大変よく似ている。(きっと田舎のほうが大変…)それでここに住んでもあまり違和感を感じないんだと思う。(今はトルコの都市部のほうが日本よりも男女平等な気がする…)この本にはトルコの、オスマン朝最後の勇敢な皇女の話も紹介されている。著者は皇女の娘にあたり、フランスでジャーナリストとして活躍している。ケニーゼ・ムラト「皇女セルマの遺言」「娘よ、自由に翔け」と母は遺言を残したが、娘は「自由に翔くということは必ずしも西欧的価値観に従って生きていくことではない。ムスリムを名乗ることは理不尽なことは認めないということである。」と言いきっている。EU加盟に躍起になっているトルコに是非聞かせたい言葉でもあります。