出すことの なかった手紙(その1)
あなたが 亡くなってから、もう、15年近く 経ちました。まだ 大学生だった 私も、就職して、家族を持ち、ひとりに なったり しながら、今年は、ついに 父となりました。---あなたにとって、私は、初孫であり、下ふたりは 妹でしたので、ただひとりの 男の子の孫でした。おかげで、ずいぶん かわいがってもらったことを、今でも、たくさん 憶えています。私達 兄妹は、あなたが 運転する タクシーの前席に、三人 一列に 並んで乗るのが、とても好きでした。シートベルト規制が ない頃だったこともありますが、コラムシフトの タクシーでなければ、そんなことは、できなかったことでしょう。あなたは、孫達を 乗せていても、必ず メーターを倒して、業務日報にも 記入していたことを、憶えています。あなたの娘は、若くして 私の父と結婚しました。大学の教官であった父は、ちょっと変人でしたので、母は、よく 泣かされて、実家に 帰っていましたよね。その時、私達も 一緒に 連れていってもらい、父が 迎えに 来るまでの時間を、楽しく過ごしました。小さな出来事の ひとつひとつが、今でも、とてもよく、思い出されます。---あなたが 亡くなる 一週間前、たしか、ちょうど、大学の前期試験の終わり頃 でしたから、9月に 入った頃 だったのでは と思います。あなたが 病気であったことは、私も 知っていたはずですが、苦しかったであろう あなたの闘病生活の記憶は、母に呼ばれて 病院を訪れた その一回しか、ないのです。母は、毎週のように 病院に 行っていたようですが、多分、学業に専念して欲しいという意味で、私には、あまり事態を報告していなかったのだと思います。でも、その時の 私は、父母や あなたが思っていたほどには、真剣に、学業に励んでいた 訳ではありませんでした。いわゆる 旧帝大の 校名は、戦前世代のあなたから見れば、今の私達が 思うよりも、重厚であったのだと思います。だから、自慢の 孫の勉強の 話を、あなたは、聞きたかったのだと、今になれば 想像できます。でも、最後の お見舞いに 行った時、学生生活のことは、あまり、話しませんでしたよね。実は、バイトのことくらいしか、当時の 私には、話せることが ありませんでした。プロの運転手として、何十年の経験を 持ったあなたからは、私の運転は、なんとも、頼りないものだったのでしょう。当時、母のクルマを ぶつけたばかりの 私に、「常に、他車の動きを 予測しながら 運転しなさい」と、病床から、アドバイスをくれましたよね。今 思えば、遺言とも思える 大切な言葉だったのに、あの数ヶ月後には、私は 自慢のプレリュードを 廃車にしました。さらに その2年後には、ミニバイクを相手に、今度は、軽い人身事故を 起こしました。ケガをされた方を 見舞い、そのミニバイクを弁償するまで、あなたの教えの意味を、私は、まったく 分かっていませんでした。---最後の 見舞いの時、いよいよ 大阪に帰ろうとした 私を、あなたは、とても 名残惜しそうに 見ていたように思います。当時、あなたに対して、母も、祖母も、誰も 本当の病名を 話していなかったと思います。でも、きっと、自分自身では、もう永くはないことを、知っておられたのではないかと、今は 思います。私が 病室を あとにしようとした時、いつもの 別れと同じように、簡単に あなたに 背を向けてしまったことを、私は、今でも 悔やみごとに 思っています。不真面目だったとは言え、試験中 であったこと、あなた自身には、見舞いに来るような 病気とは 伝えていなかったこと、その1週間後には、その時が来るとは、さすがに 思えなかったことなど、理由を、いろいろ つけることは できます。でも、あなたの 臨の床から、私が、あっさり 立ち去ること ができたことも、事実です。もし、逆に、自分が 床についている 立場だったのなら、あのことを、どのように 感じたことでしょう。---私は、あなたが 亡くなった年齢の 半分を、もう、生ききって しまいました。赤ちゃんが、誰もいない 空間に向かって 笑いかけるのを 見たとき、ふと、あなたのことを 思い出すこと があります。今年 生まれた 曾孫の顔を、あなたは、どこかで 見てくれているのでしょうか。