蝉のぬけがら
道端にあおむけで、天寿をまっとうしていた。 「よくがんばったね」 静かに語りかけた。 誰の糧になるのだろう? 蟻か鳥か。 いつかその原子を口にし、僕の養分になってくれるのかもしれない。 チベットのひとびとのように、ぼくのなきがらも、鳥の糧になってくれたらいいと思った。 日本の伝統ある家族制度への冒涜と揶揄されるだろうが、 ぼくは先祖崇拝は嫌いだ。墓に入らなくて充分。 強制しなければ、思い出されない存在なのなら、それでいいのだ。 中学生のころに先祖崇拝を禁じる宗派に心を奪われたのがそもそもの原因だと思うのだが。 親から受けた虐待、 親族には醜いという印象しかないのもまた事実だ。 法事などで顔をあわせれば、遺産の揉め事、祖父が外で作った子供への敵愾心 となりの集落との醜い諍い。 ぼくにあえば、必ずきく、将来の肩書きとレッテル。 こんなものどもをなぜ崇拝しなければならないのか? あやかしのほうがはるかにすばらしい。 時が過ぎ、仏教に少しずつかじりだしておもうこと。 どこに先祖崇拝を勧めるものがあるのか? まして、仏教の厳しい戒律を守れないひとびとのために、 「悪人こそ救われる」と唱えた親鸞聖人のあの寛容さから、 どうして、あのような排他的なひとびとが生み出されたのだ? 親になったからそれだけで敬われるという考えが 自尊心を失った日本人に虐待をさせたの土壌となった とぼくはおもう。 親だから、人形のように自分の好みを押し付けるのか? 親だから鬱憤晴らしのサンドバッグにするのか? 親だから性の玩具にするのか? 親として敬意を受ける資格のあるのは わが子を 別個の人格を持ったにんげんとして扱うことのできるもの のみであろう。 責任を果たせないのに敬意ばかりを強要するなぞ、あさましすぎる。 どうも先祖崇拝にはなじめない。 いつかそれを理解できる日が来るのだろうか? 「千の風に」では、ユダヤ人や共産党員の思うツボなのだろうか?