会津藩とは?~初歩編~
近いうちに会津へ行く予定はありますか?そんなアナタのための簡単、会津講座第一回は「18歳で会津藩主」はじまりはじまり~パチパチ…松平容保は天保6年(1835)12月29日高須藩主・松平義建(よしたつ)の六男として高須藩の四谷江戸藩邸で生まれ、幼名をけいのすけと言いました。土方さんと同じ年。生れ月で土方さんのほうが7ヶ月ほど兄ちゃんです。高須藩は慶長5年(1600)関が原の戦の功績により(古っ!)成立。いろいろあったのち元禄13年(1700)尾張藩の支藩になる。支藩とはいえ高須松平家は尾張徳川はもちろん、紀伊や水戸徳川との縁組も多くわずか3万石ながら御三家に継ぐ家柄であった。容保候は弘化3年(1846)わずか12歳のときに会津藩主・容敬の養嫡子となる。この容敬は伯父にあたる。弘化3年と言えば土方家は洪水で家が流され家を解体してお引越ししてたころ。ちなみに前年の弘化2年には上野松坂屋に奉公へ行き、一年と立たない内に喧嘩して飛び出し、一晩歩いて日野に帰ってましたな。(^0^;)ま、いろいろありまして容保候は会津藩を継ぐわけですが、兄弟がまたすごい。容保候を含め男子6人が成人し、次男・慶勝(よしかつ)は尾張徳川家へ。三男・武成(たけなり)は石見浜田藩越智松平家へ、五男・茂徳(もちなが)は一橋大納言家を継いだ。六男が容保候で七男・定敬(さだあき)は桑名松平家を、八男・義勇(よしたけ)は高須松平家をそれぞれ継いだ。ちなみに土方さんは10人兄弟の6男。養嫡子となったはけいのすけクンは4月27日、会津藩江戸上屋敷である、和田倉門内の屋敷に迎えられた。その年の8月15日には12代将軍家慶に拝謁し同年11月16日従四位下に叙され、侍従に任じられ若狭守を兼ね名前を「容保」と改めた。会津藩は御家門のひとつとして歴代にわたり溜間詰(たまりのまづめ)の地位にあり将軍や老中から意見を求められることになっていたので当然容保候も溜間詰の地位にあった。何度も言うけど12歳のときである会津藩の将来を託す容保候への期待は大きく、藩主容敬は熱心に教育する。嘉永4年(1851)5月、17歳のとき藩地である会津にはじめて赴き藩の実情を学ぶ。ちなみにこの年、土方さんは再び奉公に出されるが女と問題を起こし暇を出される…。藩祖・保科正之の定めた3本柱、神道、儒教、家訓。会津藩主は代々神道で「死後は仏になるのではなく神になる」と教えられる。また儒教はその精神を「仁」(情け深い人の心)とし、この「仁」が会津松平家の根幹をなすものであった。そして家訓。その1条に「大君の義、一心大切に、忠勤を存すべし。列国の例を持って自ら処るべからず。もし二心を懐かば、則ち我が子孫にあらず。面々決して従うべからず。」つまり「将軍の為絶対に忠勤を励まなくてはならない。列藩と同じような事では満足してはならない。もしも予の子孫の藩主が将軍家に対して反対する行動をとるようなことがあった場合は、その藩主はわが子でもなく孫でもないので、家老らは決してそれに従ってはならない」これ。これですよ。あの血風吹きすさぶ京都へ守護職として出かけていくことがどれだけ自殺行為でもこの家訓がある限り容保候は受けざるを得なかったのよ。おまけに当時の会津藩は東北の守りをしての地位があるので武道についてもひときわ力が入れられ、容保候自ら軍事訓練の指揮を執ったのだ。そして翌年18歳の正月、養父であり会津藩主であった容敬候が倒れる。2月10日、47歳で永遠の眠りにつく。養父の葬儀を無事終えた容保候は翌閏2月25日封を継ぎ肥後守に転任した。12月26日には左近衛権少将(さこんのえごんしょうしょう)に任命された。18歳の藩主。だがすでに回りの期待も熱く、それに応えていたのだ。安政3年(1856)22歳のとき容敬娘、敏姫と婚姻。安政5年(1858)24歳4月井伊直弼大老に就任。 6月日米修好通商条約調印 9月安政の大獄 10月徳川家茂14代将軍に就任…と、時代は否応なく会津藩と容保候を巻き込んで動いていくのであった。さぁてこのころの土方さんは…。そろそろ武士になりたくなってたころかな?近藤さんと出会ったり、宗次郎が入門してたり、彦五郎さんが剣を始めた影響を受け始めてたころかな?今日はここまで。またあした~明日は…。「京都守護職」お楽しみにね♪(「松平容保の生涯」小桧山六郎参照)