中島三郎助まつり~フタタビ!
はっぴぃば~すでぃつーみーってな訳で今年も行ってきました。「中島三郎助まつり」夕べの雨が嘘のようにあたたかく、穏やかな一日で史跡めぐりにはもってこいだねが、しかーしデジに大失敗せっかくの名作が迷作に…。悔しいので使ってやるぅ失敗1:梅がきれいに咲いていたのにぼけぼけ。失敗2:ポスター肝心のタイトルが入ってないじゃん催しは去年と変わらず。ペリーから貰った鍋で作ったシチューとか、地元の学生のブラスバンドとか歌とか踊りとか。今回の私の目的は、三郎助展示と史跡めぐり。中島三郎助展示は特に新発見もなく、箱館の中島町の紹介とかいろいろ。箱館の中島町は考えたら凄いよね。榎本町もあるけどさ、一介の箱館奉行並の名前が町名になっちゃうんだよ?本当にみんなに好かれてたんだよね。その由来に言う。“中島町(字千代ヶ岱、字陣屋通、字五稜郭通ノ各一部)新設ノ松川町、堀川町、梁川町ノ中間ニ当リ且ツ箱館奉行中島三郎助ノ陣歿地ナルカ故ニ採ル三郎助ハ千代ヶ岱ノ主将ニシテ武人ノ典型タリ俳号木鶏ソノ辞世ニ「ほととぎすわれも血を吐く思い哉」明治天皇九年行幸ノ時木戸孝允ヲシテ特ニ戦況ヲ御下問アラセラレタリト”…木戸孝允と三郎助さんは師弟の関係。僅かな時間ではあったけど木戸は尊敬していたらしい。最後は敵味方になってしまったけれど、個人的感情は別だったらしく、三郎助さんの家族に随分よくしていたらしい。だれにでも好かれて尊敬されている三郎助さん。本当にスゴイヒトです。今回ドックの見学も出来ました。あのドックの底へ行きましたよ~。浦賀ドックは明治24年(1891)中島三郎助23回忌にあたり、旧船番所裏手の愛宕山に招魂碑が建てられ、その除幕式の席で、かつて箱館戦争のときの同志であった荒井郁之助(函館での海軍奉行)が、「中島三郎助のために浦賀に造船所を造ったらどうか」と提唱し、榎本武揚は即座に賛成、地元の有力者に働きかけ鳳凰丸建造から約40年後の明治29年(1896)に浦賀船渠株式会社が創設された。 これは、招魂碑の碑文にあるとおり、中島の業績を考える時、造船所を造ることが中島の菩提を弔う 一番の供養になると考えたからに他ならない。 このようにして創設された浦賀ドックは、在郷資本家や技術者が大きく関わり昭和44年(1969)6月に合併して現在の社名「住友重機械工業株式会社」となる。 しかし平成15年(2003)3月閉鎖。現在跡地利用を思案中である。ここのドックは日本では珍しいレンガ造り。しかもイギリス式が普通だった時代にフランス式といわれるレンガの積み方で造られている。時代と共に船が大きくなり、改築を繰り返しながらココまで頑張ってきたドック。何とか上手い具合に残してくれないかしら?船の知識も海の常識もましてや造船なんて全然分からない。ドックと言われて思い浮かぶのは「宇宙戦艦ヤマト~愛の戦士達」で旅立つヤマトの出航風景。でも説明を聞いてると同様なことがここでされていたんだよなぁ。結構色々面白い仕掛けになっていて、俄然興味がわき、気づいたらデジ小僧と化す私。イカン。当初の目的を見失っているぅ。でも閉鎖された工場の秘密のトビラの奥とか、普段じゃ絶対入れない場所。と言うのはそれだけでワクワクするものだ。見学が済むと我に返り史跡めぐりへ。観光ボランティアガイドさんがいて、史跡めぐりをしてくれるのだ。どんなコースかしら~と眺めていると会津藩士の墓所が何箇所かあるではないか。早速申し込みに行くが、ワタシ一人だったのでワガママ言えそう←言うな。で、言っちゃった~。そしたら今回は「浦賀」という事なので会津藩関係でまわりたいなら日を改めてにして欲しい。詳しい資料やガイドがいるから。と言われ、じゃぁ地図だけ買って勝手に回るか。と思っていたら「墓所の場所なら少しわかるから」と案内してくれることにいやぁ、言ってみるもんだなぁ。←だんだんずうずしくなってないか、自分つづく